夢幻の松籟 拾壹(終)
厩舎の方へ去っていく馬車を見送り、緒都は屋敷に入った。食堂からただよう匂いに鼻をひくつかせて歩いていると、階段を降りてきた幾衛と目が合った。
「ただいま、兄さん」
「ああ」
「お腹が空いちゃったな。兄さんはもう食べた?」
「いや。今からだ」
幾衛が緒都の頭から足先までをサッと見、二度瞬きをした。
「緒都」
(やっぱり見抜かれたか)
緒都は笑みを浮かべる。
「擦りむいただけだから、なんてことないよ」
「手当ては」
「馬車で済ませたよ」
「そうか」
幾衛が軽く目を伏せ、廊下を折れて去っていった。
「先に食べてて、僕電話をかけるから」
横顔に呼びかけながら緒都は電話室に入る。新居橋の四〇三番を呼び出し、取り次ぎのために一分ほど待った。
「間が悪いな」
果たして傲然とした声が応えた。
「昼餉が冷めないうちにとっとと用件を言え」
「はは、こっちもお腹と背中がくっつきそうだよ。だけど馬の件で取り急ぎ報告があるんだ」
「なんだ」
「やっぱり悪霊だったよ。侯爵の馬車の車輪に憑いてたんだ。馬車店から脱走して、その影響で新居橋から荒松町が通行止めになった。最後は侯爵の屋敷の前で松煙号とぶつかったところをなんとか仕留めたよ」
「車輪に通行止めか」
篤任の声色が変わった。
「話がつながったな。こっちは志太で車輪の妖怪が出たと聞いた。だが輪入道にしても
「まあ、何もないのが一番だよ。それで侯爵曰く、例の車輪は松煙号が死ぬ何日か前、馬車店が古いものと交換してつけたらしいんだ。きっと松煙号はそいつに脅かされて怪我したんだと思う。悪霊が消えたから、他の馬が怯えることはないはずだ」
「松煙号以外に死者はなしか?」
「今のところ聞いてないよ。ただ、車輪とぶつかったか何かで怪我人が出たらしい」
緒都は声を沈めた。
「得体の知れないもの相手だ、被害の出ない方が気味が悪い。――腹が減った、他に話がないなら切るぞ」
「ああ、ないよ」
「フン」
緒都は受話器を戻し、電話の箱にぼんやりと視線を投げた。
(松煙号が犠牲になった。怪我した人もいる。僕が先に気づけていたら……)
電話室を出ると、階段を下ってくる足音三つ、それに沖浪と在森の話し声が聞
こえた。
(もし、僕でなくて秋穂兄さんだったら)
緒都は問いを押し込め、視線を前へ戻して食堂へ向かった。
第參幕 夢幻の松籟 終
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