夢幻の松籟 拾

 撒水車の去って久しい通りを土埃の一つも上げず、影が――否、影のように黒い体を陽炎のように揺らめかせ、一頭の馬が南から疾走してくる。


「松煙!」


 口々に叫ぶ侯爵とジャクリーンの目前で、松煙が再び高くいななく。車輪が恐れをなしたかのように輻を軋ませて急停止した。身を傾げ、地面に弓なりの轍を刻んで取って返そうとする、そこに力強い蹄の音が迫った。ジャクリーンが悲鳴をあげながら顔を覆う。松煙と車輪が影を交わらせて衝突した。車輪は数間撥ね飛ばされて倒れ、間もなくぐらりと起き上がる。乾いた地面をにじって進むかに見えたが、一回転もしないうちに再び横倒しになった。緒都はすかさず走り寄り、車輪を片足で踏みつけて日傘を打ち下ろした。軋むような音を最後に車輪が消える。車輪を踏んでいた足が地面につく、そこで膝の傷の痛みに気がついた。


「緒都さん!」


 ジャクリーンと侯爵が駆けてくる。緒都は袴の土埃を払って歩み寄った。


「お二人とも、お怪我はありませんか」

「はい。宜周もこのとおり」

「よかった……ですが、お二人を危険な目に遭わせてしまいました。申し訳ありません」

「無事ならそれでいいではありませんか」


 侯爵の穏やかな声に緒都は頭を上げる。


「車輪は新しいものを買えば済みますからね。むしろ、車輪が被害を出していないかが心配です――いや、今から出かけるところだったのですが、この辺りが事故で通行止めだから車を向かわせられないと聞きましてね。事故というのはまさかあれが人を撥ねたのではないかと思って、様子を見に出たのです」


 緒都が言葉に詰まる間にジャクリーンが口を開いた。


「宜周、松煙が……松煙はどこに行ったんでしょう」


 侯爵の和やかな表情がかすかに曇った。


「松煙は車輪から私たちを……皆を守ってくれたんだ。役目を果たして天国に帰っていったんだよ」


 ジャクリーンが侯爵の胸に頭を預ける。そこに得物を収めた鴫村と沖浪、河尻がばらばらとやって来た。河尻が夫妻を見るなり目を伏せる。やがてジャクリーンが目を拭って顔を上げた。


「松煙はやっぱり優しい子ですね」


 侯爵が深くうなずき、ジャクリーンの肩を抱いてさすった。


「私たちの誇りです――今までもこれからも」

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