夢幻の松籟 玖

(まるでにゅうどうだ)


 緒都は心の中でつぶやいた。馬車は心もち速度を上げ、車輪との距離を保って走る。何本か筋を横切り、再び南に進みはじめたところで、沖浪が「あれ」と声を発した。


「ここって鹿尾侯爵の屋敷の通りですよね」

「本当だ」


 河尻が顔を青くした。


「なんてこった、あいつまさか初めから侯爵を――」


 言葉が終わらぬうちに馬車がそろそろと止まり、中牟田が「車輪が止まりました」と告げる。馬車を降りると、車輪が道の真ん中に陣取り、小休みをとるようにゆらゆらと前後していた。侯爵邸は車輪の一町先に迫っている。


「お嬢さん、俺は通行人をなんとかします。すいませんが車輪はお願いしますよ」


 言うが早いか河尻が飛び出し、ぱらぱらと通る人々を誘導しはじめた。


「どぎゃんしますか」


 鴫村が布にくるんだままの銃を抱えている。


「河尻くんが人通りを抑えてくれてるし、止まってる今なら不意をつけるかもしれない。車輪はたぶん金属だから硬いだろうけど、僕らの武器なら問題ないよ」

「なるほど」


 沖浪がにこにこしながら左手を鯉口に添える。


「行けるかい」

「この距離ならぶつかられても骨を折るくらいじゃないですかね」


 緒都が一瞬呆れる間に、沖浪が腰を落としてジリジリと進みはじめた。


「鴫村君、準備をしてくれるかい? 念のためだよ」


 鴫村が無言でうなずき、馬車の陰に片膝をついて布の紐をほどいた。磨かれた銃身が乾いた空気にさらされる、その瞬間、車輪がピタリと動きを止めた。


(気づかれたか)


 緒都は日傘の柄を握りしめる。


(僕らも沖浪くんもほぼ真後ろだ、見えてるとは思えない……いや、この距離と角度で見えるとすれば)


「馬かもしれない」


 車輪が再び、今度は浮き足立ったように揺れはじめる。


「沖浪君、いったん――」


 沖浪が目だけで緒都を振り向くと同時に、侯爵邸の門の奥で人影が動いた。ゆっくりと開いた門から男女が現れ、待ち人を探すように通りをうかがう。


「侯爵とジャクリーンさんだ」

「なんですって」


 河尻が声をあげた。ジャクリーンが車輪を指差して侯爵に話しかける。侯爵がその肩に手を置くと同時に、沖浪が大きく踏み出し、抜刀の勢いのままに斬りかかった。金属のかち合う音が鳴る。均衡を崩して倒れながら沖浪が歯噛みする。車輪はスポークの何本かに傷を受けながら南へ走りはじめた。夫妻の影がうろたえたように揺れる。緒都は身を翻して駆けだした。瞬く間に車輪に引き離されながら叫ぶ。


「侯爵、ジャクリーンさん! 逃げてください!」


 侯爵がジャクリーンの肩を押し、二人して門の中に入る。


「早く――」


 窪みにつまずき、体が地面に投げ出された。緒都は冷えた空気に咳き込みながら半身を起こす。車輪が勢いを増して屋敷の塀に差しかかっていた。


(まずい)


 その時、四辺に高く響き渡る音があった。通りを振り返る夫妻の顔が驚愕に染まっている。


(まさか車輪が――悪霊が鳴いた?)


 緒都は燃えるように熱い体の中で、心臓が凍てて縮むのを覚えた。そしてもう一度叫ぼうと息を吸った瞬間、夫妻の声が耳を打った。


「松煙!」

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