夢幻の松籟 漆

「車輪です、馬車についてるあの輪っかですよ。あれがひとりでに道を走ってるってんです。俺が聞いた時は荒松町の通りにいたって話でしたが、もう動いちまってるでしょう」

「荒松町だって?」


 緒都は声を高くした。


「倉瀬馬車店があるところだ。まさか……」

「それです、その店からの通報が回ってきたんです。点検で預かってた華族様の馬車の車輪が消えた、盗まれたんじゃなく取り外した途端に手をすっぽ抜けて転がっていっちまったって。どうです、こりゃ臭うでしょう」

「うん。今すぐ出よう。在森君、中牟田君に話を――それと、鴫村君と沖浪君を呼んでくれるかい」

「承知しました」


 在森がコートを翻して外へ向かう。


「出るとしてどこをめざそうか」

「ちょいと電話をお借りしてもいいですか。本部に新しい知らせが来てるか確かめますんで」

「うん、もちろん」

「じゃ失礼」


 河尻が緒都の前を抜けて電話室に飛び込んだ。緒都はガラス戸越しに河尻の背中を見た。名乗る声や相槌の一つ一つが筒抜けに聞こえてくる。河尻は受話器を置くや廊下を駆け戻ってきた。


「一番新しい知らせじゃ新居橋駅辺りで目撃されたそうですから、北に向かってますよ」

「なら、僕らは北から南へ行こうか」

「そうしましょう。ですが新居橋と荒松町の辺りは、事故が起きたってていで車止めの達しを出してます。どれだけやってくれてるか分かりませんが、途中から歩くことになるかもしれません」

「分かった。気にしないよ」


 緒都は鴫村と沖浪、それに河尻と共に屋敷を発った。


「馬車店から車輪が消えたって話は昨日の夕方、車輪が走ってるって通報は夜のうちに署に来てたそうです。怪我人の知らせは今のところ聞いてませんが、一人や二人はいると見るべきでしょうね。まるで馬みたいな速さって話だ、撥ね飛ばされた日にはかすり傷じゃ済みませんよ」

「そうだね、被害が大きくならないうちに見つけなきゃ。……ただ、河尻君」

「へえ」

「少し気になってるんだけど、馬車店の人が車輪に襲われたっていう話は聞いてる?」

「ヤ、聞きません」

「それなら、車輪は馬車店の人に目もくれず、まっすぐ外に出ていったことになる。おまけに今のところ怪我人の確かな情報もない――特に新居橋駅の近くは人通りがあるから、襲うにはうってつけなのに。妙だと思わないかい?」

「そう言われれば確かに」


 河尻が首をひねる。


「多分だけど、車輪の目的は、少なくとも人を襲うことだけじゃない。何かそれより大きな理由があるんじゃないかな。たとえばどこかに向かってるとか、または走ること自体とか」

「走りたくて走ってるってことですか?」


 沖浪が問い、緒都はうなずいた。


「仮に走ること自体が目的だった場合、人間や建物だらけの狭い場所は選ばないと思うんだ。だから――」


 そこで馬車が止まった。

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