第參幕 夢幻の松籟
夢幻の松籟 壹
小さな窓からのぞく空は腹立たしいほどの冬晴れだった。裏から聞こえる子どもの歌とボールをつく音に、眉間のしわを深くしながら寝床を離れた。着替えを済ませて急な階段を降りる。奥向きは薄暗く気分が塞ぐが、どこか心が安らいだ。巣穴の蛇も同じ心地かもしれないと思った。
小さなパンとコップ一杯の水で喉をこじ開ける。洗った顔を拭き、視線を上げた先に男が立っていた。
「行くのか」
問いにうなずくと、男の手が伸びてきて頭に置かれた。手のひらから滲み出た冷たさが体温を塗り替え、全身を包んでいくようで、それでいて寒気は感じない。はじめのうちは気味が悪かったが、今は慣れてしまった。ハンチングをかぶり、男から差し出された鞄を受け取る。
「それじゃ」
裏口の戸を開け、目だけで振り返りながら言った。返答はなかった。
外は変わらずまぶしい日射しに満ち、調子の外れた歌とボールの音が響いていた。少年は舌打ちを添えて短く毒づき、ハンチングを目深にかぶりなおして歩きだした。
× × ×
扉がノックされた。沖浪のように雑ではなく、在森とは回数が違う。鴫村や女中ほど控えめでもない。緒都は磨いていた懐中時計を置いてから応えた。蓋の彫金に陽光が弾ける、それと反対の視界の端に幾衛が姿を現した。
「邪魔をしたか」
幾衛が机上の懐中時計を一瞥した。
「ううん、大丈夫だよ。どうしたの?」
緒都は長兄の顔を見る。まさか観劇や演奏会の誘いとは思っていなかった――議員同士の付き合いであればまだ可能性はあるが。
「
緒都は頭の中で華族名鑑のページを繰った。
「確か、元大名の家の人だね。鹿の尾っぽって書いて鹿尾」
「そうだ。彼から昨日、馬について相談を受けた」
「馬?」
緒都は思わず声を跳ね上げる。
「物が勝手に動いたとか、襲ってきたとかではなく?」
「ああ」
幾衛は眉一つ動かさない。
「馬車に繋いで走らせようとすると、ひどく怯えたり暴れたりするそうだ。つい最近まで飼っていた一頭が同じように暴れ、その時の怪我が元で死んだらしい。侯爵は死んだ馬の祟りを疑って神宮に相談した」
「それで?」
「神宮は祟りではないと結論づけた。呪いの類も調べたが違うらしい。とにかく管轄外という話だ。そして神宮側から貞峰の名前が挙がった」
「ふうん……。単なる霊のしわざなら僕たちの出る幕でもなさそうだけど、調べてみないと分からないね」
「今日と明日は夫人が対応してくださるそうだ。電話してからいつでも来るよう言っていた」
「分かった。今日の昼過ぎでいいか連絡してみてくれる?」
「ああ」
つと立ち上がった幾衛が凪いだ眼差しを送ってくる。緒都が問う間もなく粛然と部屋を出ていった。
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