血染の頸飾 參
翌朝、沖浪は八田の屋敷を訪ねた。客間に通されて座る間もなく、八田と、彼より頭半分背の高い女が現れた。沖浪は八田の着流し姿を見て肩透かしを食らった気になった。八田は女を細君だと紹介してから、改めて昨晩の礼を長々と述べた。襖越しの廊下では女中か書生かの立ち聞く気配があった。
「ついてはこれを」
八田が懐から袱紗を出して広げた。妻が隣で恐縮したように居ずまいを正した。
「ぜひ受け取ってほしい。いつもの給金とは別だ。や、なんだって恩人だから、遠慮なく」
「ですが……」
「どうぞお納めくださいませ」
妻が細く鋭い声で懇願するように言い、八田が丸っこい手で袱紗を突き出した。
(まるでこっちが脅してるみたいだ)
沖浪は金封を恭しく押し頂き、深く頭を下げた。八田夫妻は途端に喜色を浮かべ、沖浪君がついてくれるなら百人力だからこれからだって怖いものはない、彼が変な輩を紹介するはずがなかった、それにしたって運がいい、などと言い合った。沖浪は微笑の形に顔を固めて聞いていたが、話の終わりが一向に見えないので、理由をこじつけて屋敷を後にした。
(さて)
日はまだ天頂に達してすらいない。帰ったらさぞ満佐が驚くことだろう。むやみに時間をつぶす気もないものの、特段急ぐ必要もないので、少し回り道をすることにした。時々懐に手を入れて、金封の収まっていることを確かめた。
(あの先生だから、いくらにするかうんと悩まれたに違いない。もしかしたら奥さんも巻き込んで夜通し)
文机に置いた封を睨み、小さい体をますます小さくして悩む先生を思うと少し面白かった。
空の俥が走ってきて過ぎていく。堀を渡って
士族の誇りだけは捨てない親だったから、沖浪も気づいた時には歴史ある道場に入れられていたし、満佐も琴から裁縫、薙刀までを母に叩き込まれた。学校という場所に縁があったのは遠い昔のことだ。卒業してからは同じ年頃の者との交流がめっきり減った。沖浪はまだ道場で剣の仲間に会っていたが、満佐は親しい友人がそろって進学してしまい、ばったり顔を合わせそうな機会といえば買い出しか縫い物を納めに行く折くらいだった。いつか二人で出かけた時、通りの向こうを歩いてくる海老茶袴の娘たちを見た途端、満佐がパッとうつむいた。そして娘たちがすっかり行ってしまってから、
「律ちゃんたちでした」
と言ったことがあった。律といえば満佐が仲良しだと話していた級友だった。消え入りそうな「律ちゃんたちでした」の声を沖浪は忘れられない。
女学校に沿って角を東に折れた。もう少し腕を振ってなどと黄色い声が互いを励ましている。沖浪の頭に妹の姿が浮かんだ。夕餉の前には今日はいいことにすると話しながら、後でこっそり作業していたのを沖浪は知っている。着物の修繕や小物作りは、いくらかの足しにはなると言い張って、伝手もないなか満佐自らつかみ取った仕事だ。母仕込みの裁縫の技量が雇い主の目にかなったのだ。沖浪自身も、市内有数の道場に入れてくれ、今や仕事道具である伝家の刀を質にも入れず遺してくれた点に関しては、親に素直に感謝している。
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