血染の頸飾 貳

(来るのか。刀が見えてないんだろう。酔うとロクなことにならない)


 果たして一人の拳がぐんと迫ってきた。ふらついているというのに動きが読めるから不思議なものだった。沖浪は鞘ごと抜いた刀で受け流し、つんのめってくるこめかみに柄頭を叩き込んだ。


(青タンになるな。頭を冷やすといい)


 酒臭い土埃をあげて転がる男を一瞥し、激昂していたもう一人に向けて悠々と構える。男はひっくり返る仲間と沖浪を交互に見ると数歩後ずさった。沖浪はそれに合わせて前に出た――さながら円舞曲を踊るように。わけの分からぬ捨て台詞を吐いて男は逃げた。逃げる拍子に後ろに立っていた二人とぶつかり、罵言をまき散らして走っていった。ぶつかられた二人は転がる一人を助け起こし、沖浪と八田への謝罪をもごもごと述べながら消えた。


「終わりましたよ」


 刀を差し直して沖浪は振り返った。電信柱の陰で身を低くしていた八田は、沖浪の手を両手で握って立ち上がった。


「お怪我は」

「ないよ、ああ、ないとも」


 八田は肩からずり落ちた羽織を整え、あわただしく袴の裾をはたいた。


「歩けますか?」

「行こう行こう」


 後の道のりは極めて穏やかだった。屋敷の前で沖浪が足を止めると、八田が再び沖浪の手をとった。


「今晩は助かった。君のおかげだよ。や、若いのに大した腕だ。達人の域といって間違いない」

「それはどうも」

「明日朝来てくれるかね」

「ええ、承知しました」


 八田はすっかり血の気と照りの戻った顔をほころばせ、沖浪の肩を叩いた。


 八田が小さな屋敷に引っ込むのを見届け、沖浪は再び歩きはじめた。ここからなつちょうの家までは先の料理店までの倍以上の距離があった。帰り着いたのは十時を大きく回った頃で、戸を潜ると、妹の満佐まさが小走りに現れた。


「お帰りなさいませ」

「まだやってたのか」


 沖浪は満佐の白い手が持っている縫い物を見た。


「あと少しだけと思ったらつい。でも今日はいいことにします」


 遅くなる日はいつも夕餉を済ませておくよう言うのだが、満佐は聞かない。沖浪は白飯を飲み込み、にやっと笑って口を開いた。


「やり合ったよ」


 煮物に伸びていた満佐の箸がびくりとして止まった。


「何、傷一つない」

「お兄様でなくて、相手の方は?」

「たんこぶをつくって逃げた。仲間と一緒に」

「逃げられたのですね」


 満佐のなで肩が、力の抜けたようにさらに下がった。


「なんだ」

「それはお兄様は手加減を知りませんから、心配するのは相手の方です。道場でもそうだったでしょう」


 沖浪は目をぱちくりさせた。


「誰も言わなかったよ。怪我させたことはあったかもしれないが」

「怖いんですから本人には言えませんよ。でも私は聞きました。『お兄様、とてもがいいそうで』って」

「へえ」


 沖浪は味噌汁の中の豆腐をつつき、それからぐいと飲み干した。

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