太承錦府オペラ・オクルタ

藤枝志野

第壹幕 血染の頸飾

血染の頸飾 壹

 おきなみ五十哉いそやには政治的な信条も野心もなく、商いのこつを覚えてやろうという気もなかった。ただ自分と、それから妹が食っていくにはという一点を、自分の剣の腕に結びつけて思案した結果、用心棒という稼業は自然な選択だった。とはいえ小役人に天誅を下そうと目論む輩もいなければ、わざわざ大店で物盗りを企てる輩もいないので、日々会館の控室や入口で待ちぼうけをするか、店先で目抜き通りの雑踏をながめるかして過ごすのだった。あるいは、彼に悪党どもを抑止するはたらきがあったのかもしれない。二十歳を越したばかりの若造が、貧乏士族が少し背伸びしたようななりをしている。身長は六尺、顔にはいつも微笑をひっつけている。それが見ようによっては、また見る者によっては、とらえどころのない恐ろしさに感じられるので。


 その頃ははっについていた。小柄で小心者の新人代議士である。夜、会合の終わりに合わせて来てほしいというので、八田の屋敷にほど近い料理店に行った。早いかと思ったが、せっかちな俥がすでに一台停まっていた。


「八田先生の護衛を仰せつかっている者です。今晩ここで――会の会合がおありでしょう」


 帯刀した六尺の男が店先にいては客が逃げる、とでも言いたげな顔つきを一変させ、給仕は沖浪を小部屋に通した。三十分ほど待つと、表に自動車や俥が騒がしく集まった。さほど広くない道だから身動きがとれなくなるだろうに、と沖浪は思った。思ったそばから階上でどたどたと音がしたので、申し訳ばかりに出された茶を飲んでから立ち上がった。


 八田は脂と酔いで照り輝く顔を拭い、鼠のように動き回っては、男たちの手を握って慇懃に挨拶し、そして丁重に見送った。鷹揚に言葉を返し、俥や自動車に乗り込む男たちは、八田にとっては残らず畏怖すべき先達であった。それを全て見送った彼の丸顔は少々萎んで見えた。


「待ったかね、サア行こう行こう」


 沖浪と八田は、未だ動かない俥と俥の間を縫って店を去った。涼しい夜だった。屋敷までは十余町で、八田にしてみれば朝の散歩と変わらない心持ちのはずだった。なので、四つ辻で酔いどれの徒党と鉢合わせた時には顔をサッと青くした。萎んだ丸顔が蒼白なのだから満月さながらで、沖浪の目におかしく映った。


 徒党はいかにも役人だと名乗るような八田の身なりに気づいたようで、お国の為に滅私奉公だろう、それがなんだ酒を食らって、と文句を垂れた。ゆらゆら揺れる指で八田のさらに上を示し、回らぬ舌でもってブツブツ罵るのがやはりおかしく、


「フフ」


沖浪は口元に手をあてて笑いを漏らした。八田には聞こえていない、というより聞いている余裕がない一方で、泥酔した徒党の耳にははっきりと届いたらしい。据わった目が一斉に沖浪を向いた。眼光を逃れた八田がいち早く電信柱と塀の間に縮こまった。


「笑ったな」


 徒党の一人が声を荒らげた。


「何が面白え」

「あなた方」


 沖浪は唇の端を拭って一人を見返した。


「酔っ払いがぐだぐだ言って」

「何」


 沖浪は再び小さく笑いながら徒党を一人ずつ見回した。奥の二人は酔いが醒めたか沖浪の不気味な笑いにあてられたかして無言で突っ立っている。対する手前の二人はというといよいよ眉を吊り上げ、顔をどす黒くした。


(来るのか)


 沖浪は内心呆れた。

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