5.襲撃

 き、ぃ、ぃ、ぃ――。

 視界に、【白】の筋が走る。耳障りな音が、そのまま視覚情報に変換されていく。


「……なんの音だろう、これ」


 キーラは【色】に一瞬眉を寄せたものの、ひとまずはそれを無視することにした。

 夕食を終え、キーラは一人で絵を描いていた。

 シドニーとレティシアは、そろって出かけている。なんでも地元のバーにシドニーの知り合いがいるらしい。まったく顔の広い女だった。

 キーラも誘われたが、適当にはぐらかした。

 店主秘蔵のバーボンは少々気になったが、それよりも絵を描きたい気分だった。

 風のない静かな夜だ。作業には理想的な夜だった。

 聞こえるのは時計の音、冷蔵庫の唸り、紙面を裂く色鉛筆の咆吼――。


 き、ぃ、ぃ、ぃ――音が、脳を掻き毟る。


 見ないようにしていた【色】が、ちらちらと視界の端で主張してくる。

 おもむろに立ち上がると、キーラは電灯のスイッチを切った。

 八〇三号室が、暗闇に包まれる。キーラはしばらく電灯を見つめた後で、作業に戻った。

 紙を切り裂くように筆を走らせる。白を潰すように色を叩き込む。

 カーテン越しに月光が淡く差し込む中、白が見る見るうちに赤く染まっていく。


 き、ぃ、ぃ、ぃ――。


 がちがちがちがち。反射的に歯を鳴らしたキーラは、とっさに口元を押さえた。

 何をしても、【白】の筋が邪魔をする。意識に割り込んでくる。

 キーラは口を隠したまま、視線を周囲に巡らせ――コンセントの差し込み口を見た。

 スマートフォンを取り出す。いくらか躊躇ったあと、電話をかける。


『はーい、こちら大統領執務室』

「ねぇシドニー、確か工具セットを持っていたよね?」

『持ってるけど……何? どうしたのさ?』


 聞き返してくるシドニーの背後からは、静かなジャズ音楽と人々の笑い声とが微かに聞こえた。どうやら、バーで盛り上がっているらしい。


『というかさー、君もこっち来なよ。夜の湖、めちゃくちゃキレイだよ。ジョシュアにも見せてやりたいな。でも、レティがさっきからずっと僕に説経を――』

「部屋のどこかから耳障りな音が聞こえて耐えられない。すごく高い音だ」

『えー、マジ? 蚊でもいるんじゃないの?』

「蚊の羽音じゃないな。もっとおかしな音だ……少し聞き覚えがあるけど」

『ふーん、それで? それでどうして工具セット?』

「音を止めるために設備を一部解体するかもしれない。だから必要」

『だ、ダメダメ! 何考えてんだよ! 内線でスタッフを呼べばいいじゃないか』

「……ホテルスタッフに、この音をどうこうできるとは思えないな」


 キーラは眉を寄せつつ、コンセントの差し込み口へと近づく。

 差し込み口のそばには、鉄とガラスで作られたテーブルが配されている。そこに置かれた灰皿の横に色鉛筆を置くと、キーラは差し込み口に耳を近づけた。


 き、ぃ、ぃ、ぃ――常人には聞こえない音が鼓膜を突き抜け、脳を苛む。


「……やっぱりここから聞こえる。これは解体するしかないよ。工具セットはどこ?」

『やーめーろって! いいか、僕が戻るまでともかく何も――」


 その時、【色】の波が後方から断続的に走った。

【蛍光色】――見たことのない奇妙な【色】だ。

 それまで電話と高音にばかり気を取られていたキーラは、弾かれたように振り返る。

 目に映ったのは、つるりと禿げた男の姿だった。

 口元が、肉食の虫の持つ捕食肢のような形に変貌している。

 男は目元からだくだくと蛍光色の液体を零しながら、キーラめがけて襲いかかってきた。

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