6.アブノーマル・シチュエーション
――瞬間、キーラはほとんど無意識で動いていた。
伸ばされた手をかいくぐり、禿頭の男の懐へと潜り込む。
そして捕食肢よりもさらに下――青白い喉に、素手で突き込んだ。
軋むような悲鳴とともに、男の体が後方へと倒れていく。
その胸部を膝で押さえ込み、キーラは近くのテーブルから灰皿を迷いなく取った。
一撃。奇妙な悲鳴が上がる。
二撃。男の頭蓋が砕け散る音がする。
三撃。砕けた頭部から脳髄が床へとこぼれ落ちる。
「……あ、しまった」
――そこで、キーラは我に返った。
ひびの入った大理石製の灰皿を見つめ、血にまみれた周囲の惨状を見る。
『おい、キーラ! すごい音がしたぞ! 何をしたんだ!』
床の上に落ちたスマートフォンから、シドニーの怒鳴り声が響く。
キーラはひとまず倒れ伏した男の体から立ち上がると、スマートフォンを取り上げた。
「……どうしよう、シドニー。人を殺してしまった」
一瞬、沈黙があった。
『人を? 殺したって? 今?』
「うん」
『なにで?』
「灰皿。部屋に置いてあったやつで撲殺した」
再びの沈黙。しかし直後、くつくつと笑う声が電話の向こうから聞こえてきた。
『灰皿! 灰皿とはね! 完全に素人の犯行じゃん!』
「笑うんじゃないよ。仕方がないだろう、突然襲われたんだから」
『あの『オルカ』が灰皿だぜ! マジウケる! ちょっと聞いてよ、レティ……!』
「別に面白くはないだろう」
血でぬるつく灰皿をとりあえずテーブルに置き、キーラは不満げに唇を歪めた。
しかし、シドニーはなおもけたけたと笑っている。
『いやー、ヤバイ……天下のオルカが灰皿で撲殺とかさー! ほんとウケる……! ――とりあえずさ、映像通話に切り替えてよ。その不運な侵入者を見てみたい』
「私は一刻も早くこの死体を片付けたいんだよ。でも、どうすればいいのか……」
『あとでアライグマのクリーニングサービス呼べばいいじゃん。いつもみたいにさ』
「連中ってこういう場所にも来るのかな?」
シドニーの言葉に、キーラは首を傾げつつも振り返った。
「こういう『普通』の場所の死体でも――」
影が動く。床が軋む。殺したはずの男が起き上がる。
泡立つようにして再生する脳を――限界まで伸張した捕食肢を――そして自分へと迫ってくる青白い指先を、キーラは無機質な眼で見つめた。
「……ねぇ」
キーラの姿が掻き消えた。禿頭の男の指が宙を掻く。
「君は殺されたんだよ」
液体の零れる眼窩が、天井を――高く跳躍したキーラの姿を、見る。
直後、その頭蓋にキーラの靴が叩き込まれた。
口器が砕け、蛍光色の血が飛び散る。
「私が殺したんだ」
すかさず起き上がろうとする男の側頭部に、再び灰皿が叩き込まれる。
頭蓋とともに大理石が砕け散った。頭の半分を失った体が、再び床の上に倒れ込む。
なおも痙攣を繰り返す男の姿を見つめ、キーラはテーブルから鋏を取った。
「だから、ちゃんと死んでくれないか」
がち。不機嫌そうに歯を鳴らして、キーラは鋏を振り上げた。
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