第2話「教育係の碧海さん」
「そうか、教育係に碧海くんがね。」
「えぇ最初は嫌がってましたが最後は快く引き受けてもらえました」
そう言いながら椅子に座っている克一にお茶を渡す沙月。
「また思いきった人選をしたね、霧島くん」
「あら、彼女じゃダメでした?」
「そんなことはないよ、ぼくもそろそろ彼女には次のステップに進んでもらおうと考えていたからね」
そう言いながら受け取ったお茶に口をつける
「水谷君はコーヒーでいいかしら?」
「あっはい、すみません」
すぐ横の机で書類にサインをしていた涼太は顔を向け返事をする。涼太はスタッフルームの一角にある来客スペースで書類に目を通していた。明日から働くのだ、業務に関する書類や、通勤経路の地図など書かなくてはいけない項目もある。
「はい、コーヒー」
「ありがとうございます」
沙月からコーヒーを受け取り軽く頭を下げた。対面の席にコーヒーを飲みながら沙月が腰を下ろす。涼太はそんな沙月に質問した。
「碧海さんってどんな方なんですか?」
「んっ?しずくのこと?そうねぇ、一言でいえば魚オタクよ」
「魚オタクですか?」
「そっ、魚って聞くとすぐ反応するし、魚に関する知識はここで働く誰よりも凄いわ」
そう言いながらコーヒーを飲む沙月。確かに磯エリアで子供たちにしていた解説は接客というより研究者の話し方に近い。それによくよく思い出せば子供たちよりも魚に触っていた気もする。
「まぁ悪い子じゃないからそこは心配いらないわよ。あとはさっきの通りちょっと抜けてるってところかしら」
接客で持ち場を離れすぎたり、解説に夢中になり話し過ぎてしまう部分のことだろうか。
「少し人と話すのが苦手みたいだから、そこだけは大目に見てあげてちょうだい。慣れるまで時間はかかるかもだけど」
そう言う沙月の口元は意地悪そうに笑っていた。自分と碧海さんとのやりとりを楽しむつもりなのだろう。
涼太は書き終えた書類をまとめると立ち上がり克一のもとへ向かった。
「できました、克一さん」
「うん、ありがと。えぇっと」
眼鏡をかけ受け取った書類に目を通す克一
「うん、問題なし。じゃあはい、これ」
そう言うと書類を置きその横に置いてある服の束を差し出した。スタッフ用のTシャツと防水仕様のズボンだ。
「長靴は明日使う時に置き場所の説明と一緒でいいかな。室内作業やスタッフルームの時はスニーカーで構わないから、派手な色とかはダメだけど」
「分かりました、ありがとうございます」
克一から服を受け取る、これが明日から涼太の制服になるのだ。
「じゃあ明日は8時に来てもらえるかな、その次からは朝礼に間に合うように出勤してくれて構わないから」
そう言いながら克一は眼鏡を取った。
「はい、明日からよろしくお願いします。」
そう言うと涼太はさっきまで自分が座っていた場所に戻りリュックに受け取った服をしまった。しまい終えリュックを背負うと涼太は克一のいるほうを向き
「では、お先に失礼します」
「ん、気をつけて帰るんだよ」
「じゃあまた明日ね~」
「はい、明日からよろしくお願いします」
と二人に挨拶を済ませ帰ろうとドアノブに手を伸ばすと涼太が触れるより先にドアが開いた。それに気づき涼太は一歩下がった
「失礼します、霧島チーフはおられ…」
聞いたばかりの小さな声と一緒に入ってきたのは先ほど沙月に教育係を任命されたしずくだった
「おられますか?ってあっすみません!ドアの向こうにいるの気づかなくって」
そう言いながら一歩下がった人物に気づいたのかしずくは下がった人物のほうを向き頭を下げ顔を上げると
「って!あっえぇっと、水谷君ですよね。すみません!」
涼太と気づくとまた頭を下げ謝るしずく
「いえ大丈夫ですから、顔を上げてください碧海さん」
そう言いながら涼太は彼女に声をかけた
「はい」
しずくは申し訳なさそうに顔を上げる
「あおみちゃん、こっちこっち」
そう言いながら来客スペースを仕切るついたてから顔を出し沙月が手招きをする
「はい、では」
「はい、お疲れ様です」
そう言いながら涼太はしずくと入れ替わるようにドアを出る。すると後ろから
「じゃあ明日からよろしく頼むわよ、彼女のこと」
「あっはい」
と振り向きながら返事をし、涼太はドアを閉めた。
(ん?彼女?オレが教わる側じゃ)
沙月の最後の言葉が気になった
(そういえばさつきさん碧海さんのこと姫様って言ってたような)
涼太はさっきの磯エリアでやり取りを思い出したが、そこまで気にすることはなかった。
明日から色々教わるのだから小さなメモ帳とか必要かなと、考えつつ涼太は帰路についた。
~ ~ ~ ~
面接を終えた次の日、涼太は昨日と同じ道を自転車で走っていた。昨日と違うのは時間帯だ、今はまだ朝の7時半。昼間の暑さを思えば走りやすい気温だ。車で通うことも考えたが今の時期に海岸沿いを走ると日によっては海水浴客などの車とかち合うことになると思ったからだ。下手をすると混みあいに巻き込まれ遅刻になる可能性もある。幸いにも職場となる水族館は自宅から30分ほど自転車を走らせれば着く距離だ。通っている大学よりも近いのだ。
(雨の日以外なら自転車で十分だな)
そんなことを考えつつ自転車を走らせる。生まれてからずっと海の近くに住んでいるが海からの潮風は飽きない。時折潮風に揺られつつ走らせる。気づけばもう水族館前の広場だ。
自転車を止め広場から海を眺める、反対側を振り向くとアーチがありそこから館の入口に向かって階段がのびている。”三崎アクア・マリンパーク”アーチに書かれている。今日からお世話になる水族館の名だ。
「さぁ今日から頑張るぞ」
軽く背伸びをしペダルに足をかけ自転車を走らせる。職員用の入口に向かうと克一が玄関先で掃き掃除をしていた。涼太が来たことに気づいたのか克一は顔を上げ、いつもと変わらない笑顔で迎えてくれた。
「おはよう、涼太くん」
「おはようございます、東郷館長」
~ ~ ~ ~
「今日からうちで働くことになった水谷涼太くんだ、すでにみんな顔見知りかもしれないがよろしく頼むよ」
「水谷涼太です。短い間ですがよろしくお願いします!」
そういって挨拶する涼太をスタッフは皆笑って迎えてくれた。朝礼を終えると涼太の元には一言声をかけてくれる人もいた。
「今日からよろしくな」
「よろしくね」
とよくある挨拶もあれば、
「また源さんにアジ分けてって言っておいてよ」
「源二さんにこの前の干物美味しかったって伝えといてよ」
と祖父の源二に対しての話もあった。
「朝から人気じゃない?このまま就職すれば?」
「茶化さないでください。オレはまだ三回生ですよ」
そういって沙月の元へ行くとすぐにイジられた。キリっとしたたたずまいで涼太を迎えてはいるがその口元は笑っている。
「じゃ、とりあえず碧海さんと一緒に行動して仕事覚えるところからね」
「はい、ってあの碧海さんは?」
沙月からの指示を聞いた涼太はしずくを探した。てっきり傍で待っていると思っていたのだが見当たらない。
「もしかしたらもう持ち場に行ったのかしら?あの子あぁ見えて仕事への取り掛かりは誰よりも早いのよ」
他のスタッフに声をかけられている間に持ち場に向かわれたのだろうか。涼太はそう思うと近くのボードでしずくの今日の担当を確認しようとした。
「こ、ここにいます!」
沙月のほうから声がし振り向くと同じように後ろを向く沙月が見えた。
「おはようございます、、霧島チーフ。と水谷君?」
沙月の後ろから小さな声で挨拶が聞こえた。二人で声のするほうを向くと来客スペースのついたてから長い髪を束ねたしずくが顔を出した。
「なんでそんなとこに隠れてるのよ」
「は恥ずかしくって、それに水谷君ほかの皆さんに声かけられてて」
「当たり前でしょ、働くのは今日からだけどスタッフさんとの付き合いはあなたより長いんだから。いいから早くこっちに来なさい」
そう言われるとゆっくりと涼太の前に来た。
「昨日も言ったけど今日からあなたに教育係をお願いする水谷君、で教育係の碧海さん」
「よろしくお願いします、碧海さん」
「よ、よろしく。水谷君」
二人はお互いに会釈する
「はい!じゃあ二人とも今日はよろしく」
そう手を叩くと沙月は自分の持ち場へ向かって行った。
「えぇと…その、まっまずは掃除に向かいましょう」
「はい」
そう言ってしずくは歩き出す、その歩みは少し固くも見える。涼太もすぐにしずくの後を追うようにスタッフルームを出る。そんな二人を克一は笑顔で見送っていた。
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