増田の場合
(あー、だりいな……)
俺は二階の部室で楽器を回収し、三階にある三年C組の教室に向かっていた。
「
「うん」
「吹部は女子ばっかで楽しそうだよな。ぶっちゃけハーレムじゃん」
「ハハッ……まあねー」
同級生のお約束な
(あそこのどこがハーレムだよ。性格ブスの掃き溜めじゃねーか)
中学時代、俺は吹奏楽部の副部長で、ホルンのパートリーダーだった。
コンクールで全国大会までは行ったけど、結局銀賞止まりだったのがずっと心の隅に引っかかってる。
毎年金賞が当たり前と言われてて。もちろん自分たちも期待されてるのはわかってた。それなのに、大会直前に些細なことで……本当に些細な言葉の行き違いをきっかけに、一部の女子部員達が揉めた。
そして本番では一番大切なところで足並みが乱れて、あのザマだ。
副部長として、そして揉めた部員がいるパートのリーダーとして、自分の力量不足を痛感した。もうあんな目にあうのはうんざりだ。特に一部の勘違い系女子部員は本当に面倒くさい。
しかし、そうは言っても吹奏楽部はどこも女子ばかりだから、高校ではもう入らない……そう思ってた。
吹奏楽部の強さは完全無視して自分の進路を優先に選んだのは、就職率の高さを誇る隣接市の商業高校だった。俺の家はそんなに裕福なわけじゃない。下に弟妹も二人いる。俺はさっさと就職しようと決めたのだ。
もう吹奏楽部は入らないと内心では決めていた。でもあれだけ親に無理を言って、手伝いも勉強も頑張ってみせてなんとか買ってもらったマイ楽器がある手前、ぱったり止めるのも気が引けた。
とりあえず冷やかしのつもりで部室を覗いてみたら、男子というだけで容赦なく女子達に集団で腕を掴まれて。マイ楽器持ちというだけで、有無を言わさずホルンパートの教室に放り込まれた。
今思えばありえないほど強引で失礼なその女子たちは、後にホルンパートの二年だとわかる。しかもさっきまであんなに図々しかった癖に、出身中学を聞かれて答えるとやや構え始め、目の前で軽く吹いてみせたら急に態度がよそよそしくなった。
ここの吹奏楽部は万年地方大会止まり。おまけにこんな連中ばかりなら、部活やめて近所の楽団にでも入ったほうがマシだと思った。
でもその時、パートリーダーだという三年の
小林先輩は一言で言って綺麗な人だった。少し垂れ気味の目尻がとても優しげに見える。艶々のストレートヘアがいかにも清楚系っていう感じ。
「増田君、だっけ。本当に上手だね。羨ましいな。私、高校に入ってからホルン始めたの。ピアノやってたから楽譜は読めるんだけど、やっぱり管楽器って難しいよね」
「えっと……なんで高校スタートの人がパートリーダーやってるんすか? ――あ、すいません」
うっわ、俺最低! 今めちゃくちゃ失礼な事を言った! 慌てて謝ったけど、小林先輩はそこでへにゃりと笑った。
「あははっ、そう思うよね! でも仕方ないんだよ、ホルンの三年って私だけだからさ」
その笑顔に、変な卑屈さや自虐的な諦めの色はなかった。むしろホルンという楽器を純粋に楽しんでいるようにみえて急に羨ましくなったし、軽い嫉妬心が芽生えたんだ。
入部を決めてからは、下手くそな二年女子の二人がいちいち俺に突っかかってくる。そのうちの一人が小林という苗字だったから、あえてパートリーダーの方を『麻美先輩』と名前で呼ぶことに決めた。
教室に入ると、すでに麻美先輩が楽器を出している所だった。何やら嬉しそうに紙箱から新しいマウスピースを取り出している。
「お疲れ様でーす……あ、麻美先輩、それ新しいマッピ?」
「へっへー、いいでしょ~。今度のコンクール用に買ったの」
──実に嬉しそうな笑顔だ。この人は普段とても落ち着いているように見えるけど、たまに表情がものすごく子供っぽくなる時がある。そしてその手にあるマウスピースはUカップ……確か以前はVカップを使ってたはずだ。
「先輩。Uカップにしたんですね」
「うんそうなの。
Vカップは低音が出しやすい。今までは
そういえば今度のコンクールの課題曲はまだ楽譜が配られたばかりで、パートで合わせる事もしていない。自分は一年だから自動的に
そう思って、早速音出しを始めている先輩の横に行った。
「ちょっと譜面みせてもらってもいいっすか」
断りを入れて手を伸ばすと、少しだけ肩が先輩に触れそうになった。けどその寸前でさっと身体が引かれて避けられる。その動きに半瞬遅れて、ふわりと甘い香りを感じた。
(なんか香水でも付けてるのかな)
ぼんやりとそんな事を考えつつ楽譜に目をやると、自分に充てがわれた4thの譜面とは全く違う高い位置に、黒いおたまじゃくしがずらりと並んでいるのを見つけた。
ああ……。これは麻美先輩にはちょっとキツめかもしれない。
「しかも1stは早打ちが多いっすね……」
チラと見れば、麻美先輩はちょっと不安げな顔をしている。そのおろしたてのマウスピースのすぐ向こうに、桃色に潤む唇が目に入る。その距離の近さも相まって、軽く心臓が跳ねた。
――今なら便乗して要求できるだろうか。
「あの、麻美先輩。もしよかったらここ、そのマッピで試させてもらっていいっすか?」
「えっ……ああ、うんいいよ。ちょっと洗ってくるから待ってて」
「うっす。ちょっと楽譜見せてもらってますね」
「うん」
──そっかあ、やっぱり洗うよなー!
中学時代、楽器の貸し借りはわりと当たり前だった。簡単にハンカチで拭うだけで、異性間でも平気で貸し借りしていたものだ。
でも流石に高校にもなると、色々と
麻美先輩が戻ってくると、あっさりと真新しいマウスピースを渡してくれた。冷たいそれを自分の楽器にセットして息を吹き込めば、唇の振動が金属に体温を伝えてすぐに熱くなる。
(――うん、悪くない、かな。ただ、先輩の楽器は学校の備品だからなぁ……)
この学校の備品楽器は、お世辞にも程度がいいとは言えない。年一程度で点検は出すものの、マイ楽器ほど気を使う人はいないし、部室内での持ち運びは雑にされがちだ。先輩本人がいくら丁寧に扱っていても、他の部員のそれを防ぐことはできない。
「あの……先輩の楽器と合わせて試してもいいっすか?」
「へ? ──ああうん、いいよ」
ちょっと間の抜けた返事だった気がするけど、気にせず楽器を入れ替えた。
さっきまで吹いてた新しいマッピを差し込んで息を吹き込むと、自分の楽器から出る音とは違う、少々荒々しいそれに驚いた。
(なんだこれ。結構息入るじゃん)
初心者向けの楽器だからだろうか。思った以上に息がよく入る。調子に乗って息を吹き込んでいけば、どんどん楽器は温まっていく。
不意に左手の触れる部分とレバーに自分の体温が移った事を意識した。その瞬間、麻美先輩の細く長い指を思い出す。
もしかしてこれは今、間接的に手を握っているのと同じでは……?
変に意識し出したら妙に頬が上気するけど、これはきっと高音を連続して出しているせいだ。きっと、たぶん、恐らく。
視線を感じて目線を上げると、麻美先輩が笑顔で、でも少しだけ寂しそうな顔で俺を見ていた。いっけね。せっかくの新しいマウスピースなのに、俺ばっかり吹いてて……。
「あ……すみません、いつまでも借りっぱなしで。ちょっと洗ってきまっす」
目を合わさないようにさっさとマウスピースを抜き、楽器を渡して急いで手洗い場に向かう。
あーもう俺の馬鹿。麻美先輩といると、どうも調子が狂うんだ。
水を出してマウスピースを流そうとした時、至近距離で見た、麻美先輩のぽってりとしたかわいい唇を思い出した。
(…………)
これはちょっとした悪戯心。カップ側じゃなくて、シャンク側――楽器に差し込む筒側から水をかけて、唇の当たるリム部分だけは流さないまま教室に戻る。
教室では麻美先輩が楽器を抱え、ちょっとぼんやりした表情で楽譜を眺めている。
「はい、麻美先輩。ありがとうございました」
水を切り、軽くハンカチで拭いたマッピをわざと目の前に差し出すと、ちょっと肩が跳ねて目が丸くなった。先輩のその表情の変化が妙に愛おしくて、自然と俺も笑顔になる。
「わっ……あ、こっちこそ試してくれてありがとうね」
同じように笑顔が返ってきた──よかった、機嫌悪いわけじゃなさそうだ。
自席に戻って先輩を見ると、俺が使ってたマウスピース──リムだけ洗われてないそれを、なぜか頬に当てて目を瞑っている。
(え……なんで??)
俺の
俺は楽器ケースからタオルを取る振りして思い切りうつむいた。そして次に顔をあげた時には、もう麻美先輩はロングトーンを始めている。
(何なんだ、今のは……)
――麻美先輩。よくわからないけど、そういうの……ずるいっす。
法螺吹きの悪戯 月岡ユウキ @Tsukioka-Yuuki
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