法螺吹きの悪戯

月岡ユウキ

麻美の場合

 ここは、関東の某商業高校。

 三階にある三年C組の教室は、吹奏楽部のホルンパートが放課後の利用許可をもらっている。


「お疲れ様でーす……あ、麻美先輩、それ新しいマッピ?」

「へっへー、いいでしょ~。今度のコンクール用に買ってもらったの」


 私の新しいマッピ──マウスピースに反応したのは、一年の増田悠太ますだ ゆうた君だ。──今春、マイ楽器を携えて入部してきた貴重な男子部員!


 そもそも生徒全体の八割が女子なのに、男子が吹奏楽部に入ってくれたってだけでありがたい。その上、彼の出身中学は全国大会の常連だ。正直うちみたいな万年地方大会止まりの高校の吹奏楽部には、もったいない人材である。


 そんな私、小林麻美こばやし あさみは十七歳。ホルンのパートリーダーになったばかりの三年生。


 私は高校に入ってからホルンを始めたので、経験者ばかりの二年生女子達は勿論、増田君よりキャリアが短いことになる。


 でも今年のホルンパートの三年は私しかいないので、ほぼ自動的にパートリーダーになったのだ……本当に、やりにくいったらありゃしない。


 それにしても二年生の子達はまだ来ていない。どうせまだ部室でダベってるんだろう。これは後でちゃんと言わなくちゃ。


「先輩。Uカップにしたんですね」

「うんそうなの。1stファースト吹くようになったら、高い音が結構多くてねー」


 二年生も、そして増田君も、私よりずっと上手だ。それでも三年というだけで私が1stパートを担当するのは理不尽だと思うけど、部長──同学年の男子に『あの二年達に1stを渡したら、今後絶対に小林の言う事を聞かなくなるからやめろ』と言われた。


 もちろんその事は彼女らに言ってない。けど、確かに図に乗ってしまうだろうなぁ、という予感はあったので部長に従った。


 思えば、増田君は部活見学に来た当初からかなり気さくだった。敬語は苦手らしくて最低限しか使わないけど、不思議と嫌な気分はしない。


 つい数ヶ月前まで中学生だった彼は周囲の男子に比べてもかなり小柄で、その目線は身長165cmの私と大して変わらない。やや吊り気味の目は涼やかで、造りだけ見ればイケメンの部類に入ると思う。

 でも今はまだ中学生っぽさが抜けてなくて、可愛らしい印象も残っていた。


 でも二年の子たちは『増田は生意気だ』って嫌がってる。けどたぶんそれは、あの子達が年長者ぶって暗にマウント取ったりしてるせいじゃないかな。

 増田君が生意気に見えるのは、たぶん彼に嫌われてるからだと思う。



「ちょっと譜面見せてもらっていいっすか」


 突然、増田君がすぐ側に来た。その肩が私の肩に触れそうになって、咄嗟に身体を引く。すると他所の家に始めて入った時のような、嗅ぎ慣れないけど不快ではない独特の香りを感じた。


 私の目の前に伸びる袖まくりした腕は筋張ってて──その癖妙にすらりと長い指で、私のパート譜をペラペラとめくっている。


 増田君は私と大して身長も変わらない上に、顔はどちらかといえば童顔だ。それでもその腕や手は妙に男っぽくて……ほんの少しだけ、心臓が跳ねた。


「ああホントだ。しかも1stは早打ちが多いっすね。あの……麻美先輩。もしよかったらここ、そのマッピで試させてもらっていいっすか?」

「えっ……ああ、うん、いいよ。ちょっと洗ってくるから待ってて」

「うっす。ちょっと楽譜見せてもらってますね」

「うん」


 勝手に跳ねようとする心臓を悟られないよう、余裕を持ってそっと楽器を置いて教室を出る。手洗い場で水を出し、マウスピースに水を掛ける直前。一瞬迷ってその向きを変えた。


 カップ側じゃなくて、シャンク側……楽器に差し込む筒側から水を通す。


 これは、ちょっとした悪戯心。あえてリム──唇の当たる部分だけを流さないで、そのまま教室に向かう。


 手とマウスピースをハンドタオルで拭きながら戻ると、増田君は私が座っていた席に陣取って譜読みをしていた。ベルを軽く叩きながら、小さく呟くようにリズムを取っている。


「はい、これ」

「うっす」


 すっかり水で冷えたマウスピースを渡すと、増田君はためらいなく自分の楽器にセットして試し吹きを始める。


 彼の薄い唇が、さっきまで私が使っていたマウスピースと繋がってる。少しだけドキリとしたけど、その感情はすぐにかき消された。彼の唇を通して生まれる音は、私が欲しかった速くて丸い理想の音そのもので……正直、悔しい。


 増田君はそれからしばらく吹くと、おもむろにマウスピースを外して眺めてる。


「うん、これ悪くないと思います」

「え、ほんと!? よかったー!」


 経験者の増田君に言われると、妙に安心感が増す。……いや、これは増田君だから、かな?


「あの、先輩の楽器と合わせて試してもいいっすか?」

「へ? ──ああうん、いいよ」


 そうだよね、マウスピースはあくまでも楽器との相性が大切だから。


 増田君は慣れた手つきで楽器を持ち替えると、マウスピースを差し替えて試し吹きを始める。


 ──え、何これ。これって本当に私の楽器からの音? 私が出す音と全然違う!! 音量は桁違いだし、音質が荒々しくて、いい意味で男っぽい。


 やっぱり男子の肺活量は侮れない。悔しい。羨ましい。そして……微かに妬ましい。


 しばらく1stパートを吹いてくれたところで、増田君と目が合った。少しハッとした様子で演奏を止めると、申し訳なさそうに頭を下げる。


「あ……すみません、いつまでも借りっぱなしで。ちょっと洗ってきまっす」

「あ、うん。ありがとう……」


 さっとマウスピースを抜いて楽器を丁寧に私の手に渡すと、そのまま教室を出て行った。受け取った楽器は増田君の息で十分に温まってる。というか、ちょっと熱い位だ。


 私、もしかして目付き悪かったかな。増田君、ちょっと引いてた気がする……。あーもう! いくら増田君の方がずっと上手でも、私の方が先輩なんだから。もっと余裕持たないとダメなのに!


 椅子に腰掛け、楽器を抱えるようにしてぼんやり待っていると、大きくてすらっとした指を持つ手が目の前に現れた。


「はい、麻美先輩。ありがとうございました」

「わっ……あ、こっちこそ試してくれてありがとうね」


 急に目の前に手が現れてびっくりしたけど──よかった、増田君笑ってる。私も精一杯微笑んでみせた。


 なぜかやや火照る頬に当てると、水道水で冷やされたマウスピースが気持ちいい。楽器に差し込んで鳴らせば、さっき増田君が鳴らした音との違いが明確にわかる。


(技術だけでなく、肺活量ももっと欲しいな……)


 楽譜を閉じてメトロノームをセットする。今日は曲練じゃなくて、基礎練をしっかりやろう。

 私はいつもより更に腹式呼吸を意識して、ロングトーンを始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る