第64話 焦燥の刻 2

頭を空っぽにして料理に打ち込む事で、何とか忘れようと努力していた不安が、ふとした切っ掛けから、再びぶり返してきた。


「……大丈夫か?」

厨房の片隅に控えていたゴリマッチョ部長が、心配そうに声を掛ける。


「部長……。エンリは どうして、知らないおじさんに、のこのこ付いて行っちゃたんでしょうか?」

小鳥遊クンは、答えの見えない疑問を、部長に対して問いかける。


あのエンリが……である。

混戦の最中さなか、如何に油断していたとしても、怪しげな男に成す術も無く拘束されるだなんて、いったい誰が予想していただろうか?

しかも その後、彼女は一切の抵抗も見せず、男に攫われてしまった。


「分からない……」

部長は渋い顔で答えた。


おそらくは、何らかの目的があっての事だ、とは思う。

だが、その目的が、皆目 見当付かなかった。


ただエンリが、保護者たる小鳥遊クンを意図的に外して行動する事を選択した以上、これまでの経験から云っても、碌でもない結果が待っている事だけは、確信できた。


「部長……。俺は……。エンリには、普通の女の子として、美味しいモノを食べて、遊んで、呑気に笑っていて欲しいんです」


戦乱渦巻く異世界で、陰惨な生存競争を生き延びたエンリ。

そんな彼女の死生観は、小鳥遊クン達とは大きく異なる。

根本的に、物の価値、命の価値。そして、それらに対する、モノの見方が決定的に違う。


魔法と云う規格外の力を持ち、独自の価値観に基づき行動するエンリ。

そんなエンリを自分達の尺度で図ろうとすれば、必ず酷い目に会う。


それなのに、この目の前の小鳥遊クンと云う男は、頑なに あのエンリを、単なる6歳の女の子として扱う事を止めない。


「部長、知ってますか? エンリは、他人が作った食事には、絶対に手を付けないんです」


小鳥遊クン家に来てからも暫くの間、エンリは、彼女が自ら選んだ食材を、彼女の目の前で調理しなければ、絶対に箸をつけようとはしなかった。


「お菓子だって、包装状態を穴が開くほどチェックしてから、買うんです」


初めて お菓子売り場に連れて行った時、彼女は『完全密封された菓子袋』を見て、ひどく感動していた。

細工される可能性が極めて低い事が、いたく お気に召したらしい。


「エンリの生きて来た世界が、どれだけエンリに優しくなかったのか、わかりますか?」


エンリの事を思いながら、一心不乱に料理に没頭する小鳥遊クンを目にし、ゴリマッチョ部長は、何とも居た堪れない気持ちになる。


彼女が拉致されたのは、夕飯前の時間帯。

そこから、既に7時間以上の刻が経過している。


拉致される前、喫茶店ここで形ばかりの注文こそしたものの、結局エンリは、出されたモノには、まったく手を付けなかった。

今頃きっと、お腹を空かしている事だろう。


「人込みでは目を離さない事。危険な場所に連れて行かない事。そんな当たり前の事を怠った俺達は、エンリの保護者失格です」


「そうだな……」


ゴリマッチョ部長は、小鳥遊クンの言葉に、深く反省する。

いつから自分は、エンリを「子供じゃない」と、勝手に決めつけていたのだろうか?

彼女の危なっかしさ、突飛な行動は、まさに子供のソレではないか。


今回の事態を招いた根本的な原因は、自分達の油断にこそ、あったのだ。


「魔法と云う存在を抜きにしても、エンリの持ってる価値観や倫理観は、平和ボケした我々とは、あまりに違い過ぎて、理解できようはずもありません」


だからと云って、それを真っ向から否定しても仕方の無い事だと、小鳥遊クンは思っている。


「まずは、ゆっくりと、お互いの共通の認識や約束事から、徐々に溝を埋めていかなければ、ならないんです」


だから、その時間を奪わないで欲しい。


「それには多くの時間が必要かも知れません。でも、時間さえ頂ければ、きっと叶うはずなんです」


だから何事も無く、いつものエンリに戻ってきて欲しい。


「すまん。今回の事は、嬢ちゃんの行動を読み切れなかった、俺の責任だ……」


部長は絞り出す様な声で謝罪を述べた後、沈痛な表情の小鳥遊クンに対し、深々と頭を下げた。

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