魚人女-10
男は、件の岩礁で発見された。
岩場に気を失って寝かされていた所を、たまたま通りかかった漁師に見つかったのだ。
仮にも一国の王子である男が何故そのような場所に倒れていたのか、王宮の者達は疑問に思わないでもなかったが、彼の奇行は今に始まったことでもないし、本音を言えば行方不明のままで、何なら死体として見つかって欲しいぐらいであった。
男もそういった周囲の本音は分かっているから、さも本当に心配したかのように良識ぶる周りの者を鬱陶しく感じ、療養を名目に、多くの時間を自室に引き籠って過ごしている。
* * *
夜中。
男は真っ暗な自室の大きなベッドの上に座って、あの魚人のことを考え続けていた。
あれは夢だったのだろうか? 男の周りに、あの日々を示す物的証拠は残っていない。指輪は、あの時踏み壊してしまった。最早、男の記憶だけが、あの女との、あの魚人との日々の残滓だ。
思い返せば、よく殺されなかったものだな、と苦笑する。気が動転していたとはいえ、彼女の目の前で贈り物を踏み躙ったのだ。逆鱗に触れていてもおかしくない。何なら、あの怪物に連れ去られて、ただ死ぬより恐ろしい目に遭わされることもあったかもしれない。
けれど、魚人の方から口付けをされて、それきりだ。その時のことを思い出して、男は強烈な吐き気に襲われる。だが、男は今もこうして、陸の上で生活できている。それはとても幸運なことに思えた。
(それにしても、あの人間に化けた姿は、大層美しかった)
男は寝そべって、あの日の記憶に浸る。憂いを帯びた瞳、ウェーブの掛かった仄かな青の髪、恐ろしい程に端麗な顔つき……終わってから考えれば、全ては自分を釣る為の餌だったのだろうが、それでも女と岩礁で過ごした日々が幸福であったことに違いはない。夕陽に照らされた女の表情は、瞼の裏に強く焼き付いている。
(やはりおれは、恋をしていたのだ。あの女は唯一、おれを愛してくれていたのだ)
男は、そんな風に考えた。あの指輪を受け取った時に、泡となって消えてしまった恋。二度と取り戻せない恋。男は胸が締め付けられる思いがして辛くなる、ああ、夢の中でもいいから、もう一度会いたい。そんなことをぼんやり思いながら、男は瞳を閉じる。
けれど最近の男は、奇妙な夢ばかり見る。一面を占める赤色の炎、黒い空を飛び回る翼の生えた蜂のような生物、這いずり回る黒ずんだ不定形のぶよぶよしたモノ、けたましく鳴り響く縦笛の音と太鼓を打つような振動……。
男はその夢の中で、理解の範疇を超える生物や建造物を見た。思わず飛び起きる程にショッキングな悪夢も、度々見る。男は、その全てが自分の無意識とか想像力とかから生じているとは思えなくて、夢日記を付け始めた。
けれど、どれだけ恐ろしい夢を見て、ありえざるものに苛まれても、あの日の魚人ほど醜いものは、まだ見つけられていない。おれから初恋を奪った、あの醜い醜い怪物。あの筆舌に尽くしがたい嫌悪感だけは、夢で再現されることはなくて、逆説的に、男はあの忌まわしい事件を現実で起こったものとしか認識できなくなった。
結局、あの魚人は海に帰ったのだろうか。それとも、あの岩礁で性懲りもなくおれを待っているのだろうか。あるいは、今もおれを攫おうと、その機会を窺っているのだろうか? 確かめる術はない。
いや、術ならある。最近、海に纏わる夢を良く見るのだ。渦を巻く海流、海底に聳える都市、あまりに巨大なウミヘビの如き怪物、そして深海を泳ぐ人と魚の混じったような怪物共の群れ……。
きっとおまえの仲間なのだろう。けれどそれでも、一番醜いのはおまえなのだ。おまえしかいないのだ。今に、この夢の中から見つけてみせよう。最近は、意識もはっきりしてきたし、記憶も鮮烈に残るようになったのだ。
(なあ、夢の中なら、おまえを飼おうが、殺そうが、交わろうが、誰にとやかく言われる心配もない。もっとおまえの醜さを見せてくれ。そして、おれに嘲笑させろ……)
呪詛のような文句を繰り返し唱えながら、男は深い眠りに落ちていく。
やがてその“恋人たち”が水泡のように消え失せるまで、そう時間は残されてはいないだろう……。
[完]
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