魚人女-9

 深く、深く、海の底へ。

 冷えきった潮水が、魚人と、その腕の中の男を、凍てつかせようと包み込む。

 ごおごおと渦巻く海底は、もっと暗い深淵へと誘わんとしているかのようだ。

 魚人は躊躇うことなく、渦の隙間を泳いでいく。時折、渦に巻き込まれた砂のつぶてが魚人の肌をかすめて、表面に鮮やかな傷を作る。けれど、そんな痛みなどまるで感じていないかのように、されど、男を決して傷付けないように、深く抱きしめながら、後ろ脚で懸命に海を蹴る。

 魔女の住処の前に構える泥と触手の空間は、どうやらの死骸の数が増えているらしかった。忌まわしい四音節の鳴き声と共に、そこら中で玉虫色の球体が蠢く。血と肉片が、一面を赤黒く染め上げていた。けれど魚人は、ぶつかる肉片を払い除けもせずに、そのまま海中を突っ切っていく。

 やがて扉まで辿り着くと、魚人は扉を突き破り、中から溢れ出る泡に逆らって、室内へと侵入する。



* * *



 部屋の中は、数日前と比べ、すっかり整頓がされていた。床を埋め尽くしていた雑貨の類は忽然と消え去り、棚の中にも瓶ひとつない。

 けれど魔女は、変わらずそこにいた。普段通り椅子に腰掛け、書物を開きながら、天井の蝋燭の灯りに照らされている。机の上には、黄金色の液体の入ったカップがひとつ置いてある。


「あらあら、どうされましたか?」 


 魔女は書物から目を離すと、客人を一瞥する。

 魚人は、紅く汚れた海水を滴らせながら、黙って男を抱えている。魚臭さに血生臭さまで加わるものだから、先程まで清潔な香りに満たされていた魔女の住処は、一瞬にして不浄の臭気で満たされる。


『コイツヲ、ワタシに惚レサセロ』


 魔女はその男を見るのは初めてだったが、その男がであるかというのは、容易に想像できた。


「いいえ、その男はもう、貴方に惚れていますよ。これ以上ないくらいに」

『全部、知ッテイタノカ。全部、分カッテタノカ』

「まさか。ただ、一部始終を見ていた、というだけです。人の心など、私には分かりませんよ」

『言イ訳ハイイ。オマエモ、ワタシヲ嘲笑ウンダロウ。アノ忌々シイ、無貌ノ神ヨウニ』


 魔女を責め立てる魚人の口調は、しかしどこか弱々しかった。瞬かない漆黒の瞳はまさに死んだ魚のようで、虚無を映すばかり。魔女はそんな魚人の様子を、深遠を秘めた蒼眼で、じい、と見つめ続けている。


「貴方はもう、その男を好きにできるでしょう。あの薬が授けるのは、海中での呼吸法だけです。真の姿を見せた貴方の力に、人間は決して逆らえない」


 男は魚人の腕の中で、肺をしぼめたり膨らませたりして、生を繋ぎ止めている。

 それは苦悩に満ちているとも、喜楽に満ちているとも、判別のつかない表情だった。それほどまでに、男の顔面は、ふつうの人間からすれば酷く醜いものなのだ。


『オマエ。コノ男ヲ、ワタシヲ美シイト、言ウヨウニシロ。思ウヨウニシロ』

「それが貴方の、本当の望みですか?」

『黙レ! オマエニモ、デキナインダロウ。オマエハ、嘘吐キダ!』

「〈蒼き底〉よ」


 魔女は微笑を湛えながら、魚人〈蒼き底〉に問う。


「その男は、どのような表情をしていますか?」

『……幸セ、ソウダ』


 魚人は、力なく答える。その様は、幸福とは程遠いものだった。


「……私は、その男の処遇に関しては、何も申しません。貴方の思い通りになさって結構です」


 息を吐いて、魔女は椅子から立ち上がる。


「けれど、どうやら貴方はを、持ち出したようですね。この一帯からは、早く離れた方が良いでしょう」


 魔女の忠告を受けても、魚人はその場で男を抱いたまま立ち尽くすばかりであった。魔女もまた微笑みを崩さずに、呆然とする魚人を見つめ続ける。

 穴の空いた扉から、不思議なこの住処の空気が、ぼこぼこと少しずつ漏れ出している。唸る海流の郷音が、今ははっきりと室内中に響いていた。

 長い沈黙の果てに、魚人は俯きながら、消え入りそうな声で呟く。


『魔女。一ツダケ、聞キタイコトガアル』

「何でしょう?」

『ワタシハ、醜イノカ?』


 ゆっくりと顔を上げて、魚人は魔女に問う。 


「……そうですね。人の心を、最も貴いものだとするならば」


 魔女は机の上のカップを手に取ると、ぐい、と飲み干す。


「貴方は、と思いますよ」


 にこりと笑って、魔女はそう答えた。

 魚人はそれを聞き届けると、男をしっかりと抱きかかえ、穴の空いた扉から、再び海に沈んでいく。

 完全に視界から消失するまで、魔女はその後ろ姿を見送ると、壁に立て掛けられたフルートを手に取る。

 海底に、この世のものとは思えぬ不可解な音程が響き、やがて周囲は黄金に満たされた。

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