魚人女-8
「うわあ!」
男は素っ頓狂な悲鳴を上げて、数歩、後ずさる。
先程まであんなに綺麗だった女の面は、まるで蝋ようにどろどろと溶解していく。体表はぶくぶくと泡立ち、衣服はみしみしと軋んで破け、細く引き締まった女の身体が不均衡に膨らんでいく。手足は膨張し、肌から艶は失われ、代わりに汚らしい滑りが全身を覆う。そうして、鼻をつく腐った魚の悪臭だけが、変わらずどんどんと肥大化していくのだ。
やがて、女は変貌を終えた。そこにいるのは、人型をした異形の生物だ。
頭部は巨大な魚そのもの。顔面は大きく歪み、ぎょろついた瞳が男を凝視する。首の部分に備えられたエラが、空気を求めてヒクヒクと動く。手足はさながら蛙のように水かきがついており、二本の足で体重を支えながら、役割を失った二本の
耳障りのいい形容をするなら、まるで人魚だ。
けれど、ふつうの人間の感性でみれば、人と魚と蛙を潰して混ぜ合わせたような、醜悪な
「あ、あ、あ……」
男は、突然の出来事に、頭が真っ白になる。
鼓動が早まり、何度も何度も息を吸ったり吐いたりするが、その度に海水の中で呼吸を試みたときような、著しい鼻の痛みと、肺が締め付けられるような感覚に陥る。男は、地上にいながら溺れていた。
口元を押さえてごほごほと咳き込み、その場に崩れ落ち、足元の苔を見ながら瞬きを繰り返して、ここが岩礁の上であり、空気に満たされた、人間の生きられる場所だという感覚を辛うじて取り戻すと、男はふらりと立ち上がる。
やはり、眼前にいるのは、恐ろしい怪物だ。半分海に沈んだ昏い夕焼けの上からでも、その異形は見て取れる。民族の違いとか、そのような次元ではない。神の摂理を冒涜する存在が、そこにはいた。
だが、その怪物は、男を目の前にして、襲うでもなく、去るでもなく、変わらず、女であった頃の場所から動かずに、ただ佇立している。大きな二つの黒い眼は、斜めになった魚面の造形に抗うように、正面の男に焦点を合わせたままだ。
男は何度も視線を逸らしながらその事実を確認し、また、己の指には、紅い宝石の指輪が嵌まっていることを、何度も爪で引っ掻いて確かめた。
そして、男は全てを理解し、俯いて大きく息を吐く。
「……ふふ、ふはは、はははは!」
男は、がばりと面を上げる。
「素晴らしい! なんと醜く、汚らしいことだろう!」
その表情は、狂喜に満ちていた。
「それが、おまえの正体か! どうしておまえが、こんなぶすに、しきりに構ってくれるのか、ずっと不思議だったよ。納得がいった。おまえ自身が、そのような醜い姿だったからなのだな。それともまさか、おまえには、おれが、とてつもなく美人に見えていたのか? なんと悍ましいことだ! おまえは、おれに惚れたのだな。寒気がする。こんな化物に見惚れられたなど、それだけで末恐ろしい! それで、おれの気を引くために、どうやったかは知らないが、あの綺麗な女の姿になって、おれの前に現れたのか! 果たして、おれを惚れさせて、こうして、契りまで結ばせた。おれの初恋は、おまえに捧げてしまったのだ。なんという、腐った性根なことか! 素晴らしい! おまえは外見だけでなく、中身まで醜悪なのだな!」
男が、気の触れたように喋り散らすのを、魚人は黙って聞いていた。
「おれは、身の程を知っている。見た目が汚らしいということが、不細工であることが、罪であると知っている。そして、それを揶揄し、からかうことが、罪にならないと知っている。けれどおれは、それを不満に思っても、いつも我慢してきた。なぜだが分かるか?」
男は、比率の崩れた顔面に相応しい、見苦しく下劣な笑顔をもって、魚人を舐め回すように観察する。粘着質の体液に覆われた緑の肌、呼吸と共に脈動する首元、所々、そういったものを確認するたびに、おえ、とおくびを漏らした。
「それは、穢らわしいものを、人間は決して受け入れられぬと知っているからだ! いま、おれが、おまえにそう感じているように。この世に、おれより醜いものは、そういない。貧民街に足を運んでも、畜生に穢れを求めても、泥と汚物に塗れても、どこか虚しかった。けれど、おれは、やっと見つけたのだ! おれより、確実に、絶対に、あらゆる面で醜いものを! やっとおれも、こうして、ぶすを馬鹿にする立場に回れるというものだ!」
男の両目は、真珠のようにきらきらと輝いていた。それは、女が今まで見た中で、一番活き活きとしていて、滾っていて、生涯の願望を叶えたかのような、そんな至上の幸福を感じ取ることができた。
けれど女は、男が何を喋っているのかは見当もつかない。
だから、いつも男が掛けてくれる、あの言葉を聞いた。
「ウツク、シイ……?」
男は、その言葉に、ぽかんとした顔をする。そしてすぐに、天を仰ぎ、腹を抱えて大笑いを始めた。
「ははははは! 美しくも、なんともない。おまえは、世界一、穢らわしく、汚らしく、惨たらしく、卑しいめすだ。まさに、おれの奴隷に相応しい。命だけは、助けてやる。これからも、ずっとここで会おう。なにせ、おまえの汚さを、真に理解し、嘲笑できるのは、このおれだけなのだからな。ああ、言葉も分からないのであった。はははは」
男は、魚人の問いへ答える代わりに、指に嵌まった紅い宝石の指輪を外す。
それを地面に落とすと、魚人の目の前で、思いっきり踵を振り下ろす。
ぱきりと音を立て、宝石は、無残にも砕け散った。
「この、化物が。はは、ははは、ははははは!」
男は足元の宝石片を、地面から這い出る蛆虫を鏖すが如く、何度も何度も踏みつける。狂ったように笑い続けながら、男は魚人の手も引かず、滑稽な一人舞踏を続ける。魚人は、その様を、ただただ視界に収めていた。殆ど沈みきった夕陽は、野獣と野獣の影を、どこまでも引き延ばす。魚人の顔の粘液が、ぽたり、ぽたりと垂れた。
魚人は、一歩男に詰め寄ると、右腕で抱き寄せて、今度は、
男は、塩水と吐瀉物を混ぜ込んだような辛苦の中に、甘ったるい蜂蜜の芳香を感じ取る。そして、男は意識を失った。
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