魚人女-7
それから十日経ち、約束の期日となった。
魚人が魔女の住処を訪れると、やはり変わらず魔女は其処にいて、普段通りの柔和な笑顔で魚人を迎える。
「お待ちしていましたよ」
魔女は、大振りな瓶を抱きかかえている。半透明の硝子の中には、黄金色の液体が詰められている。瓶の周囲には、アルコールの匂いに混じって、甘ったるく鮮烈な香りが漂う。
「これが、約束の薬です。人間に飲ませれば、深い海の底でも暮らせるようになります。慣らすように、ゆっくりと飲ませてください。全て飲み干す頃には、すっかり平気になっている筈ですよ」
魚人は、魔女に促されるまま、瓶を受け取る。受け渡されて抱えると、足元の板がぎしりと軋む。
手の塞がった魚人は、魔女に、自分の水かきにひっついている、粘着質の物体を剥がすよう促す。
それは魚人が用いる、怪物を操るための道具らしい。魔女はくすりと微笑むと、それを麻袋の中へと仕舞った。
魚人は用が済むとくるりと転回し、黙々と扉を開ける。なだれ込まんとする海流を突っ切って、魚人は深海へと戻る。
「実るといいですね」
恋の成就を祈る魔女の言葉も、今の魚人には聞こえていなかった。
* * *
その日、男は独りで岩礁に寝そべっていた。
男がここに訪れると、女は決まって先に、波打ち際で待っている。けれど今日は、てんで姿を見せない。まあ、そんなこともあるだろうと、男は気長に待つことにした。
果たして、太陽が水平線へと沈み始めた頃に、女はやってきた。だが、様子が普段と違っている。
白い肌はどこか紅みがかっており、それに、着衣は金色の装飾の入った豪華なもので、首からは糸に通した珊瑚と貝殻をぶら下げている。
男は驚いて、声を掛けた。
「やあ、遅かったじゃないか。どうしたんだい、その格好は。まるで、嫁入り前のようじゃないか」
女は、初心な乙女のように男から目を背ける。逡巡する様子が見て取れた。
「なんだ、相手が決まったのかい。あんたの村じゃ、そんな格好をするんだな。素朴だが、いや、美しい」
「うつくしい……?」
「ああ、美しいとも。しかし、残念だな。おおかた、おれに別れを告げに来たんだろう。あんたといる時間は楽しかったが、なに、いつかは、と覚悟していたことだ」
おどけた様に笑って見せる男の表情は、横殴りの夕陽に晒されて陰る。
思わず、うつむく。けれど、せめて最後に女の姿を目に焼き付けようと、男は名残惜しむように面を上げる。
女は、初めて出逢った時のように、男をじっと見つめていた。けれど、その視線にもう迷いはなかった。瞳の奥には、確かな意志が宿っていた。
「……ちがう……」
「違う? 何が違うというんだ?」
女は、男に視線を定めたまま、湿った岩場を伝って、ひた、ひたと男に歩み寄っていく。
女の身体から漏れる臭いと潮風が混ざって、寂れた漁港のような、どうしようもなく堕落した腐敗臭が辺りに漂う。だというのに、燦然と輝く橙の太陽に照らされた女の美貌は、聖画から飛び出してきたかのように凜々しく、貴くて、そのただらなぬ気配に、男は思わず竦んでしまう。
すぐ側まで近づくと、女は懐から紅い宝石の指輪を抜き取る。
それを、男の目の前に差し出す。
「これを、おれに?」
男は、驚いて女に問う。女は何も答えず、男の瞳を真っ直ぐ覗きながら、ただ男の応対を待っている。
女は、本気なのだろう。男は、自分の立場だとか、女への疑念だとかが過ぎって、一瞬躊躇した。けれど、すぐに頭からさっぱりと追い出した。こんな美人の妻を娶るのだ。これ以上、おれの人生に幸福なことがあるだろうか。いやない。
男は、差し出された指輪を己の指に嵌める。
これが、おれの答えだ。
うまく喋れない男の妻にとっては、それが一番だろうと、男は不細工な顔面にしては精一杯の笑顔を作り、女の顔を見つめ返した。
女の顔は、どろりと溶けていた。
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