魚人女-2

「あの中を泳いで来たのですか? 大変だったでしょう」


 人間の女性は微笑みながら、棚からいくつかの小さな瓶を取り出すと、中身の粒を小皿に取って、それを蝋燭に近づけて火を灯す。たちまち、強い樹木の芳香が漂い始める。けれど、現れた魚人の放つどうしようもない腐った魚の悪臭を打ち消すことは叶わない。ぽた、ぽたと魚人から海水が滴るたび、着実に、中の空気は淀んでいった。


『オマエ、魔女カ』


 魚人は、爛れた唇を不恰好に開くと、唸り声を上げる。それはふつうの人間には通じない、魚人特有の言語だったが、この人間には、どうやら通じたようだ。


「ええ、そう呼ばれていますよ」


 この、ふつうではない人間――魔女は、魚人の目を見て、くすりと笑う。魚人は、一度の瞬きもせず、飛び出た二つの目玉で、目の前の魔女を探るように凝視し続けている。


『ナゼ、ワタシノ言葉ガ分カル』

「ちょっとしたですよ。……不都合ですか?」

『イヤ……返ッテ、都合ガイイ。オマエニ、頼ミガアル』

「頼み、ですか。それは、内容によって――」


 魔女が答え終わらない内に、魚人は、ひた、ひたと魔女に詰め寄る。

 蝋燭に照らされる魚人は、くすんだ緑色の肌と、ぬめりとした分泌液に覆われている。サイズは人間より一回り程大きく、二脚だけで身体を持ち上げれば、魔女を軽々と見下ろせる高さだ。対する魔女は、まだ風貌とはいえ、肌は白く、体躯は細く、眼前の怪物に比べれば、脆弱と評せざるを得ない。


「……ふふ、頼みごとをする態度ではありませんね?」


 魚人は、ゆっくりと右前脚――右手を伸ばすと、魔女の華奢な腕を掴む。ぐい、と軽く力を入れただけで人間の骨は軋み、主へ痛みを訴える。じわりと海水が黒衣に染み込み、魔女は少しだけ、端麗な顔を引きつらせた。


『オマエ、従エ。サモナクバ――』


 魔女を持ち上げ、より腕に力を込めようとしたその時、魚人は、魔女の黒衣に刻まれた紋様に気が付く。それは、液体に浸ることによって、浮かび上がる仕組みであった。


『――!?』


 黄金に刻まれたを目視した魚人は、たちまち魔女を掴む手を離し、頭を押さえて酷く狼狽える。


『グゥ……オマエ……!!』

「どうか、貴方の用件をお伝えください。その内容によっては、協力できるやもしれません。これ以上は――でも構わないでしょう?」


 魔女は、捕まれていた腕を撫でながら、にっこりと笑みを侍らせる。

 魚人は、先程までより敵意を剥き出しにして、しかし、魔女の方を見ないようにしていたが――やがて、しゅるると空気の抜ける音がすると、殺気ばった気配を消す。

 それに応じるように、魔女も雰囲気を和らげると、黒衣をぎゅっと絞って、水分を逃がす。浮かび上がっていた紋様は、すぐに見えなくなった。


「ええ、ではどうぞ、お話しください……そうですね、貴方の名は?」

『……〈蒼き底〉』

「ふふ、いい名前ですね。私はロザリアと申します。ではお聞かせください、〈蒼き底〉さん」


 魔女の表情は、すっかり穏やかな微笑みへと戻っていた。

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