『魚人女』
魚人女-1
深い深い、海の底。
光の届かぬその場所を、いっぴきの魚が泳いでいる。
いや、魚というには、その影は些か奇妙だ。全体的な輪郭は人型に近く、やや膨れた胴体に、頭と二対四本の手足が生えている。
だが、その頭部は巨大な魚そのもの。顔面は大きく歪み、ぎょろついた瞳が闇を見通す。首の部分に備えられたエラが、水流を受けてヒクヒクと動く。手足はさながら蛙のように水かきがついており、海中で不器用にばたつかせては、その異様な姿を前に、前にへと押し出していく。
耳障りのいい形容をするなら、まるで人魚だ。
けれど、ふつうの人間の感性でみれば、人と魚と蛙を潰して混ぜ合わせたような、醜悪な
* * *
冷たい潮水を押しのけて、魚人は暗黒の中を進む。
色のない、灰色の砂地が広がる海底には、所々ぽっかりと大穴が空き、ごおごおと凄まじい音を立てて、海水が渦を巻いている。巻き込まれれば、魚人といえどひとたまりもない。その魚人――彼女は、渦の手前まで来ると、躊躇うように泳ぎを止めたが、渦の向こうの闇を見据えると、やがて、再び手足を動かし始める。
渦巻き地帯を越えると、海底の様子が変わってくる。ごつごつとした岩場が増え、壁や海底にはヘドロ状の泥がへばりつき、その上、うねうねと触手を伸ばす植物や、淡く緑の光を放つ玉虫色の球体が、あちらこちらで蠢いている。
それはまさに、海の墓場といった情景だ。魚、木箱、人間の骨、そして同類の死骸などが、無数の触手や黒い泥に捕らえられ、締めつけられ、貪り喰われている。魚人は、ひどくしがれた声で、ゴポゴポと魔除けの呪文を唱えると、この悍ましい区画を泳いでいく。
泥の中には、金銀財宝や、美しい宝石なども埋まっていて、ふつうの人間ならば――ふつう来られない場所だが――多少の危険を冒してでも、是非とも拾い集めたいところだろう。だが彼女は、そんなものには目もくれない。獲物を感知し、捕らえようとする動植物どもを躱し、魚人は奥へ、奥へと潜っていく。
やがて、岩場と船の残骸に隠れるようにして、海底には似合わない、木造の壁と扉が視界に入る。魚人はノックもせずに扉の取っ手を掴むと、そのまま力を加える。扉は押し開かれて、魚人は内部へとなだれ込んだ。
ばしゃり、と音を立てて、魚人は水の外へと放り出される。
重力に流されるまま、四の脚で木材に着地した。
屋内には何故か海水がなく、代わりに透き通った空気が充満している。
丸太を加工した建材で囲まれた部屋は、天井から吊るされた蝋燭の灯りで満たされ、窓の外には、何処までも続く暗黒の海が見える。いくつかの棚や机が置かれ、その瓶とか、麻袋とか、杖や笛だとか、そういう混沌とした物資が乱雑に置かれている。
そして部屋の中には、椅子に腰掛け書物を捲る、黒衣を羽織ったひとりの人間の姿があった。
「あらあら……お客さんですか?」
人間は、持っていた本を閉じると、訪問者に対して向き直る。
その女性は――ふつうの人間ならば、男女問わずたちまち骨抜きにされる程に、とても美しい顔立ちだった。
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