灰を被る-10
魔女の呪いが解けてから、十日が過ぎた。
両親、それに屋敷の使用人達も、驚くほど二人の変化に無頓着であり、特に義姉の方はここ最近“呪い”で寝たきりだったというのに、不自然な程に健康な姿へ戻ってもとやかく言われることはなく、元の通りの対応に帰着していた。義姉は不思議そうにしていたが、少女は魔女の言葉を思い出し、きっと何か末恐ろしい方法で皆の記憶を操ったのだろうと、そんな風に考えて自分を納得させた。
さてこの頃、少女は昼御飯を済ませると、毎日のように日が落ちるまで屋敷の外へ出掛けていた。まだ肌寒い冬の野原を往く少女を心配して、玄関まで義姉が様子を見に来る。
「ルクレツィア、また探しに行くの?」
「はい、義姉様。私はまだ、やらねばならないことがあるのです」
「ルクレツィア……。私が言えたことではないけれど、もうあの魔女に関わってはいけないわ。心配よ」
「分かっています。今日会えなければ、すっぱり諦めます」
そう言って譲らない少女の姿に、義姉はこめかみを押さえながらも、仕方がないという風に自分のコートを取ってくると、少女に着させる。絹で織られた鼠色の高価なコートは、少女には少し大きく、それが却って両腕の火傷跡をすっぽりと覆い隠すように機能していた。まごつく少女の姿を見ると、義姉は少女の頭をぽんぽんと撫でる。
「必ず帰ってきてね、私の愛しいルクレツィア」
少女はむず痒い感触に襲われながらも、頬を綻ばせて頷く。だが家を出て、見送る義姉の姿が見えなくなると、少女はコートの袖を握りながら、白い吐息混じりに呟く。
「ごめんなさい、義姉様。もしかしたら……約束を、破ってしまうかもしれません」
* * *
少女が探しているのは、件の魔女だ。
あれから外れの山を何度か登ったものの、木造りの家があった筈の場所には何もなく、ただ降り積もった新雪が地面を白く染めているだけだった。しかし、少女の心の中に残ったわだかまりが、少女の身体を突き動かしていた。
それでも今日見つからなかったら、義姉様の言う通りに止めにしよう――そんなことを思い浮かべながら林道を進んでいたとき、少女の目に、黒衣を纏った婦人の姿が留まる。
「あっ……。魔女様!」
声を掛けられた魔女は、驚いたようにして立ち止まり、少女の姿を見やる。
「貴方は……どうなされました? まだ、私に頼み事が?」
「いえっ、その……魔女様に、聞きたいことがあって。もし私が止めなかったら、魔女様は義姉をどうしたんですか?」
「そんなことの為に、探し回っていたのです? その場合は、そのまま寿命を頂いて、貴方の義姉は死んでいたでしょう。……聞きたいことはそれだけですか?」
微笑んで聞き返す魔女に対し、少女は息を整えながら、恐る恐る声を発する。
「魔女様は、どうして私の願いを聞き入れて下さったのですか。どうして義姉を助けてくれたのですか。どうして……私を帰してくれたのですか」
少女は屋敷に戻ってから、ずっと考えていた。この魔女は、一体どうして自分のような小娘の願いを聞き届けてくれたのだろう? 最初は、自分を呪術の材料だとか、生贄だとかに捧げるものだと思っていた。或いは、人の破滅する様を観察して嘲笑うような、そんな醜悪な目的の為だと。実際この魔女は、少女が復讐に走り、真実を知って苦悩する様を愉しんでいるようだった。だが、それだけだろうか……?
もし少女の本当の心が知りたいだけならば、あの後、義姉を助ける義理はない筈だ。取返しの付かなくなった哀れな少女が絶望する様を、眺めているだけでいい。そちらの方がさぞ愉快に違いないと、少女の中の悪魔も囁いている。また、魔女は寿命を奪い取る相手について『誰でもいい』と言ったが、ならば義姉でもよかった筈だ。少女には魔女の掛けた呪いの仔細は計り知れないが、きっと行使するにはそれなりの対価と時間、それに危険を伴うのだろう。それに、寿命を丸ごと入れ替えるのなら、義姉ぐらいの年頃の人間が一番都合がいい。にも関わらず、何故魔女はあっさりと義姉を手放したのか?
何より、ずっと少女の中につっかえていたのは、十日前に魔女と対峙した時、去り際に掛けられた言葉だった。その暖かく柔らかい声色は、とても嘘や演技とは思えなかった。
故に少女は、考えていた。
「それを聞いて、どうするおつもりですか?」
「もし……もし、魔女様が、私を導いてくださったのなら、私を気遣ってくださったのなら、そのお礼がしたいです」
「奇特な方ですね。貴方の感謝の言葉は既に頂きました。それに、私は魔女ですよ?」
「いえ……魔女様だから、私を止められたんです。あの感謝は、魔女様の行動に対してのもの。もし……少しでも私を慮ってくださったのなら、その心にお返しをさせてください」
頭を垂れて頼み込む少女に対し、魔女は試すような口ぶりで問う。
「では、何をくれるというのです?」
「魔女様の――ロザリア様の望むものならば、何でも一つ差し上げます」
「ふふ、何だと思いますか?」
「その……これは、私の思い違いかもしれないのですけど……」
おずおずと申し上げながら、少女は顔を上げ、
少女の胸中にあるのは、突飛ともいえる答えだった。或いは、それは少女が望んでいたことなのかもしれない。復讐に狂い、大切な義姉を傷付け、罪を犯した自分への罰なのか、もしくは、自らの常識を破壊し尽くしたその存在に、魅入られてしまったのか。
これを言ってしまえば、後戻りはできない。だが、少女は浮足立つような高揚感の中、自らの胸に手を当て、終ぞそれを口にした。
「ロザリア様は、
暫し、沈黙。
ひゅう、と風が林を吹き抜け、枯れ葉が二人の間を流離う。それが収まると、
「……貴方は聡い子ですね、ルクレツィア?」
耳元でそう甘く囁かれて、少女はまた、ぞくり、と震えた。
踏み外してはいけない一線を超えてしまった気がして、後悔の波が押し寄せてくる。けれどそれさえも心地よく感じるほど倒錯した気分の中、微かに残った理性が、
(ごめんなさい、ナーシャ義姉様。私はやっぱり、悪い子です)
けれど少女は、僅かばかりの罪悪感を内に秘めたまま、もがくこともなく従順に、魔女の腕の中で堕落に溺れていった。
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