灰を被る-6

 手持ちの蜀台を揺らして、少女は夜の廊下を歩く。

 使用人は皆、顔を合わせようともしない。食事の時間も、勉強の時間も、稽古の時間も、付き添い達はどこか余所余所しい。

 少女の世界は、内も外もまるきり変わってしまった。少女にとってそれは、好ましい変化ではなかった。元々、使用人たちを怖がらせたい訳ではなかったし、彼らの怯える姿を見ても、それほど悦には浸れなかった。

 当てもなく屋敷を徘徊していた少女は、ふと、誰かのすすり泣く声を聞く。義姉あねの声だ。

 少女は義姉あねの部屋まで辿り着くと、ノックもせずに、そのまま扉を開いた。

 蝋燭の灯火が部屋の中を照らす。内部は荒れ果て、目が沁みるほど酷い悪臭が漂い、胃の中のものが込み上げる。どうやら、しばらく使用人もこの部屋には入っていないようだ。

 ベッドの上には、義姉あねらしき人物が、薄汚れた布に包まっている。


「ルクレツィア……? ルクレツィアなの……?」


 その人物は、ゆっくりと首を動かすと、しおがれた声を発した。


「はい、義姉あね様。……酷い有様ですね。いま、掃除します」


 少女は返答すると、蜀台を机の上に置いて、部屋の片付けを始める。


「……どうして……?」 


 義姉あねが、か細い声で少女に問いかける。少女は、何も答えなかった。



* * *



 義姉あねはあの後、ずっと自室のベッドに寝たきりであった。

 老化はますます深刻になり、皺は深く、髪も肌もボロボロにヒビ割れている。抵抗力も衰えていくものだから、少女に受けた暴行の傷は、癒える兆しすら見えない。両腕などは酷いもので、手首まで真っ黒に焼け焦げ、指先はろくに動かず、ともすれば腐り落ちてしまいそうなくらいだ。

 感覚も鈍り、運動能力もすっかり失せて、最早立つ事すらままならない。明日には死んでしまってもおかしくない、そんな末期ともいえる状態だった。

 けれど、少女から見る義姉あねの様子は、存外、落ち着いたものだった。


「ねえ、ルクレツィア……」


 義姉あねの身体を拭く少女に、義姉あねは話しかける。


「この呪いは、ルクレツィアが、やったの……?」


 少女に、本当の事を答える義理はない。

 けれども少女は何故か、返答を偽るつもりにはなれなかった。


「はい、私がやりました。魔女様に、義姉あね様が憎いと伝えました。魔女様は、義姉あね様の死を約束くださいました。だから義姉あね様は、もうじき死ぬと思います」

「そう…………」


 淡々と、死神のように事実を告げる少女に、義姉あねは、どこか納得のいったような表情を見せた。


「ごめんね」


 そして、責めるでもなく、嘆くでもなく、謝罪の言葉を口にした。


「あたし、羨ましかったの。おまえの綺麗な瞳が、綺麗な髪が……それに、お父様に、愛されていたわ。それが、ずるくて、それで……ずっと……」


 蜀台の小さな灯火が、少女のブロンド色の髪を照らす。

 少女は黙々と、義姉あねの世話を続けている。


「おまえは、強く反抗しなかったから……それであたしは、調子に乗って……けれど、分かったわ。あたしが、どれだけおまえに恨まれていたのか。どれだけおまえを、傷つけていたのか……本当に、ごめんなさい――ルクレツィア」


 少女は、義姉あねの罪の告白を聞き届けると、義姉あねの顔を冷たく見下ろす。


「今更、許せっていうの?」

「……そう……よね……ごめん、なさい……」


 義姉あねは、そのまま項垂れる。

 少女は、あまりに無抵抗なその姿を見て、逆に苛立った。

 今なら、弱りに弱ったこの義姉あねをどれだけ甚振った所で、咎められることはないだろう。誰も、この部屋には寄り付かない。この中で起こったことなど、誰も知りたくない。

 抵抗される心配も前に増してない。少女は望むがまま、この老婆の命が尽きるまで、ありとあらゆる苦痛を与えることができるだろう。

 けれども少女は、それをしても、胸の中のざわめきが収まるとは思えなかった。

 蝋燭の火が揺らめく。

 少女は、火が消えないうちにと、浮かんだ疑問を口にした。


義姉あね様は、私を恨んでいないの?」

「恨む……あたしが……おまえを……?」

「私が、義姉あね様を、殺した……ようなものです。私が、余計なことをしなければ、義姉あね様は苦しまずに済んだ。違いますか?」


 義姉あねは少女の言葉を聞くと、しわくちゃの頬を動かして、困ったように笑う。それもまた、少女の知らない顔だった、


「恨め……ないわよ。だって、されるだけのことを、あたしは、やってしまった……きっと、こんな形でなくたって、あたしはいつか、おまえに刺されていた。……ごほっ、ごぽっ」


 義姉あねは答えながら、苦しそうに咳き込む。

 そのまま喉を詰まらせて死んでしまうのではないかと心配になって、少女は、慌てて義姉あねの身体を傾けて、背中を摩った。


「っはぁ……そうね、もう、何もかもが遅いのに……でも、気付いてしまった。あたしは、おまえのことを……全然、見ていなかった」

「けれど、愉しかったんでしょう? 惨めな私を見て、面白かったんでしょう? ……義姉あね様は、そういう人でしょう。そういう人間であるはずだ!」


 少女が声を荒げて義姉あねを責め立てると、義姉あねは目を見開く。


「…………そうね。本当は、今だって……死にたくない。死にたくないの……おまえに、謝らないといけないのに。受け入れないといけないのに……! ……死ぬのが、怖くて、怖くて、あたしは……あたしは……!」


「しにたくないよ……」


 義姉あねの口から言葉が漏れると共に、大きく開かれた瞳から、涙が皺を伝って零れる。掠れた老婆の声帯から発せられた音は、しかしうら若き乙女の嘆きにしか聞こえなかった。

 少女は、その瞳を正面から覗きこんだ。顔と顔の間を、僅かばかりの蝋燭の灯が彩る。義姉あねの瞳は、深い絶望に苛まれている。けれど、義姉あねが心の底から絶望しているのは、そのものではないということを――少女は、理解してしまった。そして、義姉あねの瞳に反射する自分の姿が、悪魔そのものであると、少女は気付いてしまった。

 気が付けば、少女は義姉あねに問うていた。


義姉あね様……私に何か、望みはありますか?」

「……ないわ、これ以上、おまえに望むものなんて……。逆に、あたしに何か、できることは、あるかしら……? ……もう……何も、できないけれど」

「なら……私の頭を撫でてください」

「え……? けれど、あたしは、汚いわ……」

「いいのです。一度、義姉あね様に、撫でられたかったのです」


 少女は、義姉あねの右手を取る。泥色で、ぼろぼろで、垢だらけで、手首より先は黒焦げた、見るに耐えない腕。それを、少女はゆっくりと、自分の頭上へと持っていく。義姉あねは、それが少女の頭に乗ったであろうことを確認すると、拙く動かす。腕の感覚は殆どなかったが、髪の摺れる音が、辛うじて耳に届いていた。


「……ありがとう、ございます」


 少女は、自分でも分からないくらい――あの時感じた快楽とは別の、しかし同じくらい抗えなくて、制御の利かないものが、心の中を満たしていくのを感じた。

 少女は、優しく、慈しむようにその腕を元のベッドの上に戻すと、ゆっくりと立ち上がる。


「さようなら――ナーシャ義姉あね様」


 少女の義姉あね――ナーシャは、その言葉を聞き届けると、深い闇に閉ざされる。

 蝋燭の火は、とっくに消え失せていた。

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