灰を被る-6
手持ちの蜀台を揺らして、少女は夜の廊下を歩く。
使用人は皆、顔を合わせようともしない。食事の時間も、勉強の時間も、稽古の時間も、付き添い達はどこか余所余所しい。
少女の世界は、内も外もまるきり変わってしまった。少女にとってそれは、好ましい変化ではなかった。元々、使用人たちを怖がらせたい訳ではなかったし、彼らの怯える姿を見ても、それほど悦には浸れなかった。
当てもなく屋敷を徘徊していた少女は、ふと、誰かのすすり泣く声を聞く。
少女は
蝋燭の灯火が部屋の中を照らす。内部は荒れ果て、目が沁みるほど酷い悪臭が漂い、胃の中のものが込み上げる。どうやら、しばらく使用人もこの部屋には入っていないようだ。
ベッドの上には、
「ルクレツィア……? ルクレツィアなの……?」
その人物は、ゆっくりと首を動かすと、しおがれた声を発した。
「はい、
少女は返答すると、蜀台を机の上に置いて、部屋の片付けを始める。
「……どうして……?」
* * *
老化はますます深刻になり、皺は深く、髪も肌もボロボロにヒビ割れている。抵抗力も衰えていくものだから、少女に受けた暴行の傷は、癒える兆しすら見えない。両腕などは酷いもので、手首まで真っ黒に焼け焦げ、指先はろくに動かず、ともすれば腐り落ちてしまいそうなくらいだ。
感覚も鈍り、運動能力もすっかり失せて、最早立つ事すらままならない。明日には死んでしまってもおかしくない、そんな末期ともいえる状態だった。
けれど、少女から見る
「ねえ、ルクレツィア……」
「この呪いは、ルクレツィアが、やったの……?」
少女に、本当の事を答える義理はない。
けれども少女は何故か、返答を偽るつもりにはなれなかった。
「はい、私がやりました。魔女様に、
「そう…………」
淡々と、死神のように事実を告げる少女に、
「ごめんね」
そして、責めるでもなく、嘆くでもなく、謝罪の言葉を口にした。
「あたし、羨ましかったの。おまえの綺麗な瞳が、綺麗な髪が……それに、お父様に、愛されていたわ。それが、ずるくて、それで……ずっと……」
蜀台の小さな灯火が、少女のブロンド色の髪を照らす。
少女は黙々と、
「おまえは、強く反抗しなかったから……それであたしは、調子に乗って……けれど、分かったわ。あたしが、どれだけおまえに恨まれていたのか。どれだけおまえを、傷つけていたのか……本当に、ごめんなさい――ルクレツィア」
少女は、
「今更、許せっていうの?」
「……そう……よね……ごめん、なさい……」
少女は、あまりに無抵抗なその姿を見て、逆に苛立った。
今なら、弱りに弱ったこの
抵抗される心配も前に増してない。少女は望むがまま、この老婆の命が尽きるまで、ありとあらゆる苦痛を与えることができるだろう。
けれども少女は、それをしても、胸の中のざわめきが収まるとは思えなかった。
蝋燭の火が揺らめく。
少女は、火が消えないうちにと、浮かんだ疑問を口にした。
「
「恨む……あたしが……おまえを……?」
「私が、
「恨め……ないわよ。だって、こうされるだけのことを、あたしは、やってしまった……きっと、こんな形でなくたって、あたしはいつか、おまえに刺されていた。……ごほっ、ごぽっ」
そのまま喉を詰まらせて死んでしまうのではないかと心配になって、少女は、慌てて
「っはぁ……そうね、もう、何もかもが遅いのに……でも、気付いてしまった。あたしは、おまえのことを……全然、見ていなかった」
「けれど、愉しかったんでしょう? 惨めな私を見て、面白かったんでしょう? ……
少女が声を荒げて
「…………そうね。本当は、今だって……死にたくない。死にたくないの……おまえに、謝らないといけないのに。受け入れないといけないのに……! ……死ぬのが、怖くて、怖くて、あたしは……あたしは……!」
「しにたくないよ……」
少女は、その瞳を正面から覗きこんだ。顔と顔の間を、僅かばかりの蝋燭の灯が彩る。
気が付けば、少女は
「
「……ないわ、これ以上、おまえに望むものなんて……。逆に、あたしに何か、できることは、あるかしら……? ……もう……何も、できないけれど」
「なら……私の頭を撫でてください」
「え……? けれど、あたしは、汚いわ……」
「いいのです。一度、
少女は、
「……ありがとう、ございます」
少女は、自分でも分からないくらい――あの時感じた快楽とは別の、しかし同じくらい抗えなくて、制御の利かないものが、心の中を満たしていくのを感じた。
少女は、優しく、慈しむようにその腕を元のベッドの上に戻すと、ゆっくりと立ち上がる。
「さようなら――ナーシャ
少女の
蝋燭の火は、とっくに消え失せていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます