灰を被る-5

 暖炉の煌々とした炎が放つ灯が、広間の一面を明るく照らしている。

 少女はひとり壁にもたれ、箒の取っ手を指で弄ぶ。

 両腕に火傷を負った少女は、もう使用人紛いの雑務は押し付けられていない。けれど、暇になるとどうも落ち着かなくて、時折道具を勝手に持ち出しては、使用人に混じって、掃除の手伝いをしていた。

 しばらく、何を考えるでもなく、ぼうっとその動作を繰り返しながら暖炉の火を見つめていたが、不意に廊下の方から、かつ、かつ、と足音が近づいてくる。

 現れたのは、義姉あねだった。爪先まで隠れるような袖のドレスを着込み、肌は顔を除いて一片の露出もない。その顔だって、猥雑に伸びた茶色の髪を垂らして、その正体を隠さんとしている。だが、茂みのような前髪の間から覗く義姉あねの面貌は、一目みれば分かるほど、醜いものだ。頬はひび割れ、唇は青く、額には無数の皺。それは、少女の知る誰よりも、老婆と呼ぶに相応しかった。

 義姉あねは少女を見つけると、より一層深い皺を顔面に刻む。


「ここにいたのね、ルクレツィア……ッ!」

「これは、義姉あね様。どうしました。部屋から出ても大丈夫なのですか」

「黙れっ! よくもまあ、ぬけぬけと……!」


 張りを失った声で唸るように凄むと、鬼の形相で少女に詰め寄る。

 埃と垢が散る。どぶのような悪臭が、少女の鼻をついた。


「おまえが、やったんでしょう!」

「何をですか」

「とぼけるな! 皆、噂してるわ。おまえが呪ったんだって! 魔女に頼んで、あたしに呪いを掛けたんだって!」

「私が? どうして? 義姉あね様を? 心当たりでもあるのですか? ……っはは」


 義姉あねの勝手な言い掛かりが、あまりに真実であるものだから、少女は思わず噴き出してしまった。その様子を見て、義姉あねは更に怒りを募らせ、少女の胸倉に掴みかかる。


「ふざけないでっ! いい、じきに、悪魔祓いを行うわ。そうすれば、おまえの企みも、魔女の呪いも、全て明らかになるわ! 魔女もおまえも、すぐに捕らえられ、教会によって裁きが下される! そうすれば、全部終わりよ! いい気にならないことね、この、魔女の手先めが……!」


 義姉あねは唾を飛ばしながら、けたたましく少女を糾弾する。それを不快に感じた少女は、思わず目の前の醜女を突き飛ばす。

 「きゃあっ」――と、小さく悲鳴を上げて、義姉あねの手は少女の胸倉を離れ。その場に倒れ込む。

 少女は驚いた。

 義姉あねを突き飛ばしたら、義姉あねが突き飛ばされる。

 そんな当たり前の現象が、少女にとっては信じられないことだった。

 少女はしばし、黒ずんだ右手を握ったり、離したりしていたが、やがて床に倒れた義姉あねに視線をやる。義姉あねは、立ち上がりもせずに、恨めしそうな視線を少女に向けるばかりだ。

 少女はひとつ疑念を持った。それを確かめる為に、義姉あねに近寄ると、腹の辺りを思い切り蹴った。

 「あぐ」――今度は、確かな悲鳴を漏らして、義姉あねは芋虫のように、床に寝転がったまま体をよじる。ごほごほと何度も咳き込み、逃れられないものから逃れようとして、どうすることもできずに、じたばたと苦悶する。


「だ、誰か! 誰か助けて! ルクレツィアが、ルクレツィアがぁ!!」


 義姉あねは、いつも行っていたように、使用人を呼びつける。

 だが、誰もやってこない。

 少女は慌てるでもなく、義姉あねが喚く様をじっと見つめていたが、使用人がやって来ないことを確認すると、いよいよもって疑念が確信に変わる。

 義姉あねは、私に抵抗できないのだと。

 力で御することも、言葉で制することも、他人の手助けを得ることもできないのだと。

 少女のかおが、悦びに包まれる。その確信を立証するため、尚も叫び続ける義姉あねの眼前の床に、少女は、だん、と靴を打ち付ける。


「静かにしてください」


 少女がそう告げただけで、たちまち義姉あねは口を噤んでしまった。

 少女は、胸のすく思いをした。脅せば従う。何と気分の良いことだろう。

 いま、自分の行いは、世間的に非難されるべきものだ。神様は、きっと私を罰するだろう。けれど、私はいま、裁かれていない。それを間違いだと分かっている人間が、目の前に、目の届かない所に居る。にも関わらず、私はいま、誰にも非難されていない。神様だって、私を罰していないのだ。

 少女は全てから解放された気分だった。今なら、義姉あねを殺したって構わないのではないか。……いやいや、それは流石に後から罰されてしまう。では、どうしたものか。

 少女はふと、惨めな義姉あねの姿を見た。そうだ、義姉あねだって、裁かれるべき罪を、山程犯したじゃないか。けれど実際に今日まで、義姉あねは天に罰されてはいない。つまり、罪人の先駆者でありバイブルだ。義姉あねがやったようにすれば、私も破滅することはない。そこまで考え到って、少女はひとつ、面白い余興を思いつく。


義姉あね様、立ってください」

「なっ……何を、こんなことして許されると……!」

「立て」

「ひっ……!」


 少女は義姉あねの手を取って無理矢理立ち上がらせると、懐から紐を取り出して、義姉あねの両腕を縛る。引き千切ろうと思えば、簡単にできる程度の拘束だ。けれど少女はもう、そうさせないためのを会得している。

 「外さないでくださいね」――ただ言葉にするだけでよいのだ、


「では一歩ずつ、前に、前に……」

 

 何が何だか分からない様子の義姉あねの手を取り、少女はこの醜い婦人をエスコートする。

 二人の歩く先には壁がある。いや、正確には、そこには暖炉があるのだ。石造りの豪華な火の釜は、まるで地獄の入り口のように、うねる灼熱の炎が渦巻いている。

 義姉あねは、少女が暖炉それに近づいても、一向に歩みを止めないことに気付いて、やっと、少女がを悟り得た。


「やっ……嫌っ! 離してっ!! 何を考えてるの、ルクレツィア!?」


 少女は、にぃと口端を歪めてせせら笑う。意図が伝わったことが、純粋に嬉しかったのだ。


「こんな……こんなこと!! おまえ、本当におかしくなったの!? この、悪魔が! 悪魔めが……!!」


 義姉あねは少女を罵りながら抵抗を試みたので、少女は二、三回、義姉あねの膝を裏から爪先で蹴り飛ばした。義姉あねは立っていられなくなり、その場に崩れ落ちる。少女は義姉あねの両腕をしっかりと抱えると、ずるずると引き摺っていく。

 義姉あねは随分と衰えていたが、しかし火事場の馬鹿力とでも言わんばかりに、必死の様相で床にしがみつこうとした。だが、それを引く少女もまた、華奢な体つきからは想像もつかない怪力で、義姉あねを連れて行く。


「やっ……やめて……許して! お願いだから! ルクレツィア! それだけは、それだけは……!!」


 義姉あねはついに耐え切れなくなって、少女に許しを懇願する。けれど少女は、ただ感動していた。

 ああ、あの義姉あねが、意地悪な義姉あね様が、何の打算もなく、何の手立てもなく、私に縋っている。痛快だ。悦楽だ。私にとって永遠の暴君であった義姉あねは、もう私の意に逆らうことのできぬ哀れな人形なのだ。けれど、もう義姉あねもそのことを理解している筈なのに、それを認められないでいる。真実を認められないでいる。だからこうして騒ぎ立てるのだ。反抗するのだ。従順ではいられないのだ。

 何と、可憐いじらしいことだろう!

 ――事ここに到って少女は、義姉あねが普段、どんな世界に生きていたのかを理解した。

 ああ、きっとだ。義姉あねは私を虐げて、を得ていたのだ。思い返せば、私はとても優れた玩具おもちゃであったに違いない。止められる筈もない。だって、こんなにも甘美なのだから。

 発見が快楽の渦となって、義姉あねの悲叫を伴奏に、少女の頭に流れ込む。それは素晴らしい一刻であったが、それも永遠には続かないだろう。少女はこの幸福な時間を終わらせることを決意し、義姉あねの指先を火へと近づけていく。


「いやだあっ! いやあああぁぁぁぁっ!!」


 少女を祝福するように火花が散り、薪が踊る。

 断末魔のような義姉あねの悲鳴を耳に焼き付けると、穏やかな、非常に穏やかな気持ちで、抱えたものを前に放る。

 炎が一際、赤く輝いた。



* * *



 少女は、何の工作もしなかった。誰の口止めもしなかった。

 けれど、すれ違う廊下で、夕食の場で、少女に問い質す者は、誰一人としていなかった。母親も、父親さえも。

 少女はその日から、この屋敷の“皇帝”になった。

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