#33 近づく距離
その後も、中村さんが帰ってしまってからのことや、今年もして頂けることになったMIRAでの誕生会のこと。今後の映画制作についても話は尽きない。元々、仕事人間である中村さんの、音響演出への熱みたいなものを理解していたつもりなのだけれど、本当にこのお仕事が大好きなんだなと、改めて思わされる。
お付き合いするようになってから、お互いの家族や親せきのことはもちろん、幼少の頃からの思い出話なども更にするようになっていた。
私が一人っ子に対し、中村さんには二つ上のお姉さまがいて、二年前の春に結婚し、ご主人のお仕事の関係で、現在は京都に在住しているのだという。中村さんとは真逆の、とてもおっとりとした優しい性格なのだとか。
中村さんの誕生日が、お祭り開催三日間中のどれかになる可能性が高い為、高校入学まで毎年、近所の親戚や友人たちを招いて盛大にお祝いしていたらしい。この仕事をするようになってからはずっと参加出来なかったのだけれど、子供の頃からお祭りが大好きで、よく神輿担ぎをしていたのだそうだ。
浅草神社の氏子四十四ヶ町を中心に、五月の第三土曜日を基点とした金曜日から日曜日に行われるそのお祭りは、日本を代表する伝統高きお祭りの一つとしてとても有名であり、参加者のそれぞれが揃いの
中村さんの褌姿は想像出来ないけれど、きっと法被などを着たら最高にカッコいいに決まっている。
「中村さんも、褌を履いたりとか?」
「俺は履いたことねえんだが、親父とじーちゃんが褌に拘ってた。今は、ほとんどの奴が半たこか短パンじゃねーか」
「私もお神輿を担いでみたいです。まだ経験無いので……」
「なら、それ一式揃えねえとな」
お祭りスタイルにもいろいろあって、中村さんが好んで着るのは、江戸前スタイルというものらしい。江戸前スタイルは、紺色の腹掛と股引に鯉口シャツを合わせ、足元は地下足袋や草鞋、雪駄で決めるのだそうだ。
「ということは、法被は着ないんですね。女性も同じような感じなんですか?」
「まあな。法被を着たいなら、素肌に
「むぅ。そっかぁ……」
「その方が様になるから晒を勧めるが、別にシャツでも構わない」
「いや、でもやっぱりそこは成りきって晒し巻きに挑戦します!」
お祭りの初日である十九日は、中村さんの誕生日でもあるし、今度こそ彼女としてちゃんとお祝いもしたい。
「三日間のうちのどれかに参加出来るといいなぁ」
「俺は難しそうだから、親父に話しとく」
「お父様に?」
「毎年、頭領としてその役割を担ってるからな。おふくろも、一度連れて来いってうるせえし」
「それって、私が中村さんのお家へ行ってもいいってことですか?!」
ご家族に私のことを話してくれていただけでも嬉しいのに、そのご家族が私を歓迎してくれているかもしれない?
「すっごく行きたいです! 中村さん
「なら、そう伝えておく」
そう言って、中村さんは少し照れ臭そうに笑う。そのいつにない柔和な微笑みが、何だかとても可愛く見えた。
好きな人との楽しい時間というものは、秒で過ぎ去るもので。左手首、黒いウレタンベルトのスポーツウォッチを見ながら、「そろそろ帰らねーと」と、言って腰を上げる中村さんの、パーカーの袖部分を無意識に掴んでしまってから、はたと気づく。
「あ、すみませんっ」
すぐに離すも、やっぱり帰って欲しくなくて───
「もう少しだけ、一緒にいたい……です」
袖を掴み直し、俯くようにしてお願いしてみた。
「それって」
不意に、そっと抱き上げられる。それによって、驚きながらも咄嗟に中村さんのうなじへ両手を回した。すぐ傍にあるベッドへ下ろされ、そのまま私を見下ろしてくる中村さんの、端整な顔を間近にする。
「誘ってんのか」
「え……」
そういうことになるのだろうか。うん、そうだ。今、ものすごく中村さんに触れたいし、触れて貰いたいと思っている。
「誘ってしまってますね……わたし」
急に恥ずかしくなって視線を逸らした。途端、すぐに腕を取られ、そのまま指を絡められる。
「無理なら、またあの晩みたいに抵抗してくれ」
「え、んっ……」
そんなことするわけがない。と、思いながらも、受け止めたキスのせいで全身に力が入ってしまう。それでも、私なりに求めるようにして、もう片方の腕を中村さんの背中へと伸ばしてみた。
ぎこちなさは否めない。だけど、不思議と以前抱いたような緊張感は無かった。二回目だし、ありさと話せていたということ。何よりも、中村さんからそのままでいいと、言って貰えたことも大きいのだと思う。
まるで、包み込まれているような優しいキス。そのままゆっくりとベッドに背を預けてゆき、何度も唇を重ね合わせるたびに、自然と力が抜けていくのを感じた。
微かに漏れ聞こえる中村さんの色っぽい吐息を間近にして、これまで感じたことのない思いで胸がいっぱいになっていく。
唇と絡め取られたままだった指先を解放されてなお、首筋に落ちてきた柔らかな唇の感触によって、急激に腹部の奥に鈍い痺れを伴うと同時に、シャツの中で直に中村さんの手のひらの微熱を感じたことで───
「あっ……」
思わず、抵抗しているかのようにその腕を掴んでしまう。
「ごめんなさい! あの、これは嫌だからじゃなくて……」
「分かってる。気にすんな」
中村さんは、逆にこれ以上続けてたらヤバかった。と、言いながら私に寄り添うように肘枕をして、微苦笑を浮かべた。
───またやってしまった。せっかく私を求めてくれていたのに。
中村さんは、落ち込む私の髪を優しく梳きながら、「次からは、一応用意しておく」と、言って薄らと微笑む。その意味が分かってしまってから、違った意味で恥ずかしくなる。同時に、大切に思って貰えている事が嬉しくて、すぐ側にある広い胸元へと、甘えるように顔を埋めた。
ありさから、こういった際には特に素直になれるものだと聞いていた。その意味が、何となく分かった気がする。後ろ髪をそっと梳かれ、その手の平の温もりから安心感を得られた。
現場ではとても厳しいし、彼女よりも仕事優先な人だけれど、『やっぱ、いいな』と、思えるのは、中村さんだけなんだ。
「中村さんは、絶対にいなくならないでくださいね」
「あ?」
「えっと、その……」
顔を上げる。と、突然どうした。と、でも言いたげな瞳と目が合う。
「中村さんのいない日常なんて、考えられないので」
中村さんは、少し呆気にとられたような表情をした後、「周りに捉われすぎだろ」と、言って苦笑した。
「私も、そう思うんですけど……」
また顔を伏せてみる。短くも長い沈黙。中村さんは、囁くようにゆっくりと口を開いた。
「遅かれ早かれ、必ず別れの日がやって来る。どうしたって抗えやしない。けど、これまで自分がやってきたことに後悔はねえし、お前との出会いも偶然じゃないと思ってる」
それじゃあ、納得できねえか。と、抱き寄せてくれる中村さんに、私はこれ以上隙間がなくなるくらい身を寄せてしまっていた。
こんなにも、大好きな人から思われていたんだ。と、素直に嬉しくて。
「……あー、もう。私ってほんとバカだなー」
「何をいまさら」
呆れたような声に、思わず吹き出してしまった。
「ほんといまさら、ですよね。でも、私のどこが良かったんですか?」
「はぁ?」
戸惑い交じりの「はぁ?」を耳にして、私はまた顔を上げてみた。そんな私からの質問に対し、中村さんは視線を逸らしながら少し照れ臭そうに言う。
「
「でも、私はなかなか思ったように動けないし……こういったことに関しては特に自信ないから……だから、中村さんに負担をかけてしまうというか……」
少し落ち込みながら言い返す。と、じとっとした目で見つめ返された。
「それを言うなら、俺だって多少のプレッシャーはある」
「え、中村さんにも?」
「そりゃあそうだろ。相手はお前だし……」
右頬を優しく包み込まれる。それによる微熱も心地よくて、私はその大きな手にそっと自分の手を重ねた。ずっと、こうして触れていて貰いたいと思いながら。
「とにかく、焦らなくていいから」
「……はい」
「あと、なるべく俺がいない現場での飲み会ではハメを外し過ぎるなよ」
「え、どうしてですか?」
「お前、天然なところあるからな。酒飲まされてぽーっとしてっと、付け込まれる可能性大だから」
飲みの席で、お酒を勧められて体調を崩してしまったことがあった。けれど、お酒を勧めてきた相手が私に好意を持ってくれていたかどうかまでは分からない。そんなことよりも、中村さんが当時から私のことを気にかけてくれていたことがすごく嬉しかった。
私はにやにやしながら、更にこれ以上近づけないくらい中村さんに抱きつき、斉藤さんと同じように、『優さん』と、愛称で呼んでもいいか尋ねてみた。それに対し、中村さんは微妙な表情で考え込んだ後、「好きなように呼べ」と、言ってゆっくりと上体を起こした。
「今度こそ、帰らねえとな」
気づけば、深夜二時半を軽く回っている。二人して玄関に移動するも、やっぱり一緒にいたいという気持ちのせいで、自然と笑顔がこわばってしまう。
「明日は十時から、サウンド・ユースだろ?」
「はい。ありさと一緒です」
「次の撮影日まで別行動だが、しっかりやれよ」
「任せてください」
「つーか、上原の手際の良さを見習っとけ」
カジュアルな黒のハイカット・ミドルシューズを履きながら、ニヤリとした笑みを浮かべる優さんに対して、いつものようにふくれっ面を返す。と、優さんはすぐに困ったように微笑んだ。
「あと、その顔。これ以上成瀬に見せんなよ」
「え……」
「おやすみ」
その囁くような優しい声だけでもドキドキしてしまっているのに、額にキスまで貰ってニヤけてしまう。
「おやすみなさい。あの、帰り道気をつけて……」
ドアを開ける優さんをエレベーターの所まで見送ろうとして、「すぐに鍵かけろ」と、言われ苦笑する。
言われた通り、すぐにドアを閉め鍵とチェーンをかけて部屋に戻る。そして、ソファーに腰掛け、LIMEで今思っていることを認めた。
───深夜にも関わらず、会いに来てくれて嬉しかったです。MIRAでの誕生会も楽しみにしていますね!
すると、まだ駐車場にいるのか、すぐに返信を受け取った。
───さっきも言ったが、一翔から連絡が行くと思う。明日、寝坊すんなよ
「ぬぅ。ほんっとに信用ないなぁ……」
すかさず、私のことも名前で呼んで貰えないかと尋ねてみて、すぐに「考えておく」との返事を貰う。
「……ってことは、呼んでくれるってことだよね」
こんなに幸せでいいのだろうか。好きな人とお付き合いすることが出来て、しかも、ありのままの私を受け入れてくれる人。
「大好き……」
言いながら、左薬指に輝く指輪を見つめながらほくそ笑んだ。
そんなプチ幸せもつかの間。この後、新たなライバルが現れ、優さんを取り合うことになろうとは、露程にも思わなかったのでありました。
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