#32 忘れられない誕生日③
成瀬くんの腕の中で、複雑な思いに駆られていた。その時、二階から松永さんらしき悲鳴のような声が聞こえてきて、私たちはこれまでの気持ちを整理しつつも、急いで階段を駆け上がって行った。
寝室のドアを開けて間もなく。廊下の照明と、窓辺から差し込む月明りだけの薄暗い部屋。私が少し唖然とするなか、成瀬くんはベッドの上で泣き崩れている松永さんに寄り添うようにして声をかけた。
「松永さん……っ……」
「どこにも行かないでよ。ずっと、傍にいるって……言ったじゃない……」
成瀬くんに縋りつくようにして子供のように泣きじゃくる松永さんの、こんなにも弱々しい姿を見たのは初めてだった。だからか、私は何が起こったのか分からないまま、少し離れた場所で二人を見守ることしかできない。
「大丈夫。……傍にいますから」
成瀬くんが優しく囁きかける。その声に気づいているのか、いないのか。松永さんは、よりいっそう成瀬くんの胸元で咽び泣いている。そんな松永さんの、少しパニック気味な言動に慣れているのだろうか。成瀬くんは、更に落ちつかせようと声をかけ続けている。
しばらくの後。成瀬くんがベッド脇に腰掛け、まるで小さい子供を寝かしつけるかのように手の平で松永さんの前髪をそっと梳いてゆく。そうされながら、再度、眠りにつく松永さんを見届ける。と、成瀬くんは起こさないようにゆっくりと距離を保っていき、枕もとにあるテーブルランプの一番小さな明かりを点した。
「もう大丈夫だと思う」
行こう。と、呟く成瀬くんに頷き、私たちは静かに寝室を後にした。
「よっぽどだったんだろうな……」
成瀬くんが寂し気にぽつりと呟いた。リビングに戻り、また先ほどのソファーに腰を下ろすと、私は成瀬くんから松永さんの過去話を聴くこととなった。
じつは、他界した兄の龍也さんとは血の繋がりがなかったことや、お互いに愛し合っていたことなどを知り、愕然とさせられる。
成瀬くんにも詳しいことは分からないらしいのだけれど、吉沢さんから聞いた話だと、松永さんが中学三年の頃。お母さまが再婚したことが切っ掛けで、龍也さんと兄妹になったらしい。
その三年後の夏。吉沢さんも含めた三人で海水浴に出かけたその日。龍也さんは、溺れた子供を助けようとして、帰らぬ人となってしまったのだそうだ。
「それ以来、佑哉さんは松永さんを気遣うようになったみたい。その話を聞いていたから、俺も何となく対処出来たけど。初めて、松永さんの思いに触れて……なんか、切なかったっていうか」
「……松永さんにも、そんな悲しい過去があったなんて」
「人にはさ、何かしら抱えているものがあって、誰かに癒して貰いたいって思うことがある。それって、普通の感情だよな」
成瀬くんが泣いたように微笑むから、私はただ、俯くことしか出来ずにいた。松永さんの想いや、これまでの葛藤を思うと、やりきれなくなる。
「そうとは知らずに私、中村さんのことでバカみたいに嫉妬してた」
「それも当たり前の感情であって、水野が落ち込むことじゃないって」
「でも、もしも私が松永さんの立場だったら……そう考えると、やっぱり」
「それでも。これは松永さんの問題なんだから、水野は今まで通りに接していればいい」
不意に、左頬に熱を感じて俯き加減だった顔を上げる。
「そういう、無駄に優しいところも変わってないな」
「無駄にって……」
それが、成瀬くんの大きな手のひらから伝わるものだと理解してから、躊躇う間もなくすぐに離れていく温もり──。
「やっぱ、水野のこと諦めるのやめた」
「え……」
「俺に勝算が無いことは分かってる……。けど、松永さんに寄り添いながら、ずっと考えてた。水野のことを好きになった自分の……これまでの気持ちを誤魔化して生きていくことは出来ないなって」
と、言って苦笑する成瀬くんに、私はどうしたらいいか分からなくて、俯くことしか出来ない。
こんなにも思われていることは素直に嬉しい。けれど、今の私は成瀬くんに思いを返すことが出来ない。きっと、これからも。
*
*
*
帰宅後。腕時計や、成瀬くんから貰ったブレスレットをジュエリーボックスへとしまってから、ラフな部屋着に着替えた。次いで、ベッドに腰掛けスマホの写真ホルダーを見返しながら、今日一日を振り返ってみる。
あれから、十分もしないうちに帰宅した吉沢さんにこれまでの状況を伝え、私たちは帰宅した。車中、成瀬くんから吉沢さんの思いも聞き、より複雑な気持ちになっていた。
思わず、長い溜息がこぼれてしまう。
「もしも今、中村さんを失ったとしたら……。いやいやいやいや。そんなの、絶対考えられない……」
中村さんのいない生活なんて有り得ない。想像するだけでもこんなに怖いのに、本当に私の前からいなくなってしまったとしたら。私は、耐えられるだろうか。
そんなことを考えていた。その時、LIME受信音を受けて、すぐにメッセージを開いた。それは成瀬くんからで、自宅に着いたということと、次の撮影もよろしく。と、いう一言。そして、今夜はマジでありがとう。と、いう言葉を立て続けに受信する。
「……こちらこそ、ありがとう」
そう返答して、またすぐに「おやすみ」スタンプが送られてきた。だから、私も同じように「おやすみ」スタンプを返す。同時に、成瀬くんの言葉を思い出して、一瞬だけれど胸がちくりとした。
──水野のことを好きになった自分の……これまでの気持ちを誤魔化して生きていくことは出来ないなって。
そして、もう一つ。吉沢さんから聞いていたとはいえ、適切に松永さんと向き合えていた成瀬くんを、やっぱりすごいと思わざるを得ない。
改めて、考えてみた。松永さんや斉藤さん、裕樹くんにしても末松さんにしても。大切な人を失った悲しみは、どれほどのものだったのかと。
また、受信音がして今度は中村さんからのメッセージを受けとる。
「あ……」
今、どこにいる?と、いうメッセージに対して、私はすぐに電話マークをタップした。
「もしもし。あの、今さっき家に帰ってきました。連絡しようと思ってたところだったんですけど……」
【そうか。まだのようなら、迎えに行くところだったが……】
「あの! 今から、会いに行ってもいいですか?」
【あ? どうした急に。何かあったのか?】
「そういうわけじゃないんですけど。ただ、すごく……中村さんに会いたくなって」
一瞬の間。じゃあ、今からそっちへ行く。と、言って通話を切る中村さんの、優しい声が耳に残る。そうしてから、ふと気づいてしまった。とんでもないことを口走ってしまったのではないか、と。
「……今、行くって言ってたよね。ということは、来るってことだよねぇぇ」
慌てて部屋の中を見回しながら、散らかっているノート類やらを片付ける。それが終わると、ディフューザーにベルガモットのオイルを加えた。
「これでよしっと」
たちまち、安らげる香りが漂い始める。それとは真逆に、大胆なことを口走ってしまっていたことに対しての緊張感に包まれていた。
それから、20分ほどで中村さんを迎え入れた。ラフなグレーのスウェットパンツに、同色パーカー姿。前髪が目元を覆い尽くしていて、完全にオフモードの中村さんに、改めてドキドキしていた。
「こんな夜中に、すみません……」
「明日は夕方からだし、嫌なら断ってるから」
(う、その遠回しな返事が、また沼ってしまうのですよ)
ソファーに腰掛け、持て成す為に用意したいつものブラックコーヒーを飲む中村さんの、はぁ。と、いう吐息にもいちいち反応してしまう。
「成瀬に送って貰ったのか?」
「え、あ……はい」
「そうか」
私の勘違いかもしれないのだけれど、「そうか」と、呟いた一言に、私と成瀬くんに対する嫉妬みたいなものを感じた。だから、冗談めかして尋ねてみて、思った以上の言葉を貰い、やっぱり嬉しさが込み上げて来る。
「なんか、たまには逆の立場になるのもいいなー、なんて」
「妬かないほうがおかしいだろ、こういう場合。で、ケリはついたのか?」
私もベッドの端に腰掛けながら、成瀬くんから改めて、想いを告げられたこと。それに対して、私の想いは中村さんだけにあることなど。お互いに、これまで抱いてきた気持ちを伝え合っていたことを包み隠さず話した。
成瀬くんの本音を知り、切ない感情を抱いたこと。それによって、中村さんへの想いがより大きくなっていったことを話すと、中村さんは苦笑しながらこちらへと手を差し伸べた。だから、私はその大きな手に誘われるようにして隣へと腰掛ける。
「つーことは、俺への宣戦布告とみなしていいな」
「せっ……」
そういうことになるのだろうか。いや、そういうことなんだよな。と、改めて複雑な関係であることを認識させられた。
「負ける気はしねえけど」と、明後日の方向を見遣りながら呟く中村さんの横顔が可愛く見えて、思わず口元が緩んでしまう。そして、松永さんの悲しい過去を知り、不甲斐無さを感じて落ち込んだことなども正直に伝えてみる。
「それで、自分の器の小ささを思い知らされたというか……」
「血の繋がりが無かったというのは、俺も初耳だったんだが。これからも、松永が望む限り、寄り添ってやりたいと思っている。何をしてやれるわけでもないが……」
そうはっきりと言ってくれる中村さんの、頼もしい肩にそっと頬を預けた。
「今なら、分かります。中村さんの気持ちが……」
「まぁ、俺よりも適任だと思う人がいるんだけどな」
「それって、もしかして吉沢さんのことですか?」
私からの問いかけに対して、中村さんは一つ頷いた。
吉沢さんから、初めて松永さんのことを聞いた時からそうではないかと思っていたらしい。今日の一件で吉沢さんの、松永さんを見つめる目に特別な何かを感じたことで確信したという。
そして、頭を整理してみて気づいたことは私たちを思ってくれる人がいて、その人たちとの時間も大切にしていきたい。と、いうこと──。
「ふ、複雑すぎますね。今の関係……」
「それでも、俺たちが変に気を遣う必要はない。優柔不断な態度は、時に相手を傷つける。だから、常に自分の気持ちだけは維持できるようにしておかないとな」
「……ですね」
「それと、これ」
そう言って、中村さんは私の右腕を取ると、パーカーのポケットにもう片方の手を突っ込み、何かを取り出した。
「思ったよりも忙しくなってきたから、先に渡しとく」
アンティーク調の小さなリングケースを、私にそっと手渡してくれる。
「え、これ……」
「気に入るかどうかは分からないが……」
もしかして、これは。もしかしなくてもこれは……。そんなふうに思いながら、リングケースの蓋を開く。そこにあったのは、魔法使いが好んでつけているようなデザインの、角度によって少し黒味がかって見えるシルバーリングで、先端にはめ込まれた丸いダイクロガラスが淡い藍色を放っていた。
「なにこれ、めちゃくちゃ可愛いっ」
「彼氏らしいこと、まだしてやれてねえから」
そう言って、薄っすらと微笑む中村さんの、柔和な瞳を愛しく思いながら、私は嬉しくてすぐに自分の左薬指にはめてみた。
「サイズもぴったり……。すっごく嬉しいです。ありがとうございます! けど、中村さんの誕生日には何もあげられなかったのに」
「あの時は、俺の方から断ったからな」
「だからこそ、私だけこんなにして貰ってもいいのかなーって……」
「要らねえなら返せ」
「い、要らないなんて言ってないでしょー!?」
呆れ半分の笑みを浮かべる中村さんから、抜き取られそうになったリングを死守する。と、同時に情けないくらい頬が緩んでしまう。
「あの、これって……プロミスリングだと思ってもいいんでしょうか?」
「店員に薦められただけだから、よく分かってねぇんだけど。なんか意味があるのか?」
「えっと、贈った相手とのお付き合いを真剣に考えている。つまり、約束する。と、いった意味があるそうなんです。で、その……これにそういった意味合いは──」
「無い」
(そ、即答ぉ……)
「で、ですよねぇ~」
「真剣に考えてはいるが、約束は出来ない」
ガッカリしたのもつかの間。すぐに、「今はな」と付け足され、心の中でのみ呟いてみる。だから、どうしてそういう沼りやすい言い方をするのかな。
真顔で返答されたことも含め、より近づく端整な顔を間近にしてドキドキが加速する。
「お前の独り立ちを含め、俺が一人前になったら、改めて、用意しようと考えている」
(ヤバい、泣きそうなくらい嬉しい)
「そん時まで無くすなよ。それ」
「ぬぅ。信用ないなぁ」
上司である中村さんは、私の彼氏であり、良きお兄ちゃんのようでもある。これまでにも、何度も思ってきたことだけれど、私にとって中村さんは唯一無二の存在であるということ。今日ほど、それを強く感じたことはなかった。だけど、これからのことを考えて複雑な思いは拭いきれないまま──。
それでも、私はどんなことがあっても信じていきたい。中村さんの短所を見つけても、好きでいる。そして、中村さんからも同じように思って貰えるように、私なりに変わって行こう。そう思った。
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