第953話◆名を与えるということ

 リオ君の肩の上でモゾモゾしている澄んだ群青色のスライム。

 先週よりも少し大きくなっているような気がする、そして明らかにスライムゼリーが先週よりもツヤツヤと輝いて見えるのはほんのりと纏っている金色の魔力のせいだ。

 それのスライムが、リオ君が満面に笑みで紹介してくれたラピスラズリスライムのラピ君である。


 スライムなんていう色の付いたゼリー状のものを肩に乗せると服が汚れてもおかしくないのに、リオ君の白いシャツにはスライムゼリーの色が移っていないどころか、ゼリーの水分で濡れている形跡もない。

 先週、俺が張り付かれた時は張り付かれた箇所ががっつりと青くなったのにこれは――ラピススライムのラピ君、名前を貰ったことで確実に普通のスライムではなくなっているようだ。



「ね、見て見て! ラピはすごくいい子でしょ? 先週みたいに飛び回ったりしないし、何故かゼリーの色が服や部屋に付かなくなったんだ。脱走防止機能の付いた大きな水槽にラピを移したんだけどやっぱり外に出たがるから、部屋を汚さないようにシートを敷いて逃げないように仕切り板で囲った中に出してみたら僕にくっついてくるから可愛くて、それから毎日そうやってラピを外に出すようにしてたらいつのまにか部屋や服を汚さなくなってて、今はこうやって肩に乗せても大丈夫になったんだ。スライムって思ったよりずっと賢くてびっくりしたよ」


 すっごい早口。

 リオ君は本当にスライムが、っていうかラピスラズリスライムのラピ君がお気に入りなんだなぁ。

 ラピ君もきっとそんなリオ君が大好きなんだろうなぁ。

 麗しきかな異種間友情物語。


 いやいやいやいやいやいやいやいや、そうじゃない!

 リオ君とラピ君の友情よりも、何がどうなってこうなったのかリオ君だけじゃなくてリリーさんにも確認しなきゃ。

 俺もラピ君みたいなスライムを作りたいとかじゃなくて今後のスライム研究のためにも、この状況の把握しなければならないのだ。


「アイリス嬢、この一週間でリオのスライムに何が起こったか聞かせてくれるかな? あと、グランもこれを再現してみようなんて絶対に思わないこと!」

 いつものように俺達に付き添っているリリーさんに、俺が詳細を尋ねるより先にアベルがニッコリと攻撃力の高そうな笑顔を向けた。

 その後、更に攻撃力高い超笑顔がこっちに向いた。


 そそそそそそそ、そんなこと思っていない! けっして思っていないぞ!!

 こっそり育てているメイルシュライム君に名前を付けてみようかなーなんて思っていないぞ!!

 メイルシュトロックの在庫にも限りがあるからね!! メイルシュライム君はある程度育ったら無垢なスライムに戻ることになると思うよ!!

 メイルシュトロック……どこかで手に入らないだろうか……。


「ええ、わたくしもスライムにはさほど詳しくないのでびっくりいたしました。瓶に入れていた頃は広さが足りなかったのか落ち着きがなかったのですが、広い水槽にしてから少し落ち着いて、こうやって外に出すようになってからはすっかり大人しくなりまして、今では食事やお風呂、睡眠時間や勉強の時間以外はリオさんの肩で大人しくしてる時間が多いんですよ。それでいつのまにやら周囲を汚さないように自分の周りを何かの魔法で覆ってるみたいなのですよ。スライムって結構賢いんですね……しかもリオさんにあんなにも懐いて尊っ」


 アベルの問いに、頬に手を当てながらおっとりとした表情で首を傾げるリリーさん。

 でもなんかだんだん早口に。もしかししてリリーさんもスライムに興味が湧いてきた?

 ようこそ、めくるめくスライムの沼へ!!


 いやいやいやいやいやいやいやいや、そうじゃない!

 リリーさん、もっと疑問を持ってくれ! これは普通じゃない! ラピ君は間違いなく普通のスライムじゃないよ!!




 リオ君とリリーさんから詳しい話を聞いたところによると、先週の授業中に大ハッスルしてしまったラピスラズリスライムを脱走防止機能がしっかりしている少し大きめの水槽に移したところ、広い水槽が気に入り落ち着きを見せていたのだが、リオ君が水槽に近付くとラピスラズリスライム君もリオ君に構って欲しそうに水槽の蓋の方へいき脱走防止機能が発動するというのを何度も繰り返していたらしい。


 その脱走防止機能というのが脱走防止装置の定番、装置が起動している時にスライムが水槽から脱走しようとすると水槽の中へ向けて弾かれるというもの。

 あまり強い威力ではないのだが、よちよちと水槽を登って蓋までいったらパチンと弾かれて下に落とされるのは可哀想にも見えてくる。


 その様子を可哀想に思ったリオ君が、蓋に近付くと装置が発動するとラピスラズリスライム君に話しかけているうちに、何度もパチンパチンされて学んだのかそれともリオ君の言葉を理解したのか、蓋には近付かなくなった。

 代わりにリオ君が水槽の前にくるとガラスにベッタリ張り付いてアピールをして、リオ君もアピールされるとついつい蓋を開けてつついて構っていたという。

 その時点でラピスラズリスライム君のことをラピと呼ぶようになり、それがすぐ定着してラピスラズリスライムもラピというのを自分の名前と認識してしまったようだ。

 名を得たラピ君が自分という存在をハッキリと認識し、そこから知能が急激に上昇したのだろう。


 ラピ君は脱出防止機能を理解し大人しくなったものの、やはり外に出たそうにプルプルしている姿を見て、リオ君がリリーさんにお願いをしてシートと仕切り板を使って脱走と汚れ防止対策をして水槽の外で遊ばせてみたらリオ君から大きく離れることもなく、近くにいる人に飛びかかったり悪戯をしたりすることもなく、しかも水槽の外で遊んでいるうちに自ら魔法を使ってリオ君の服や周囲を汚さないようになったらしい。

 これにはリオ君だけではなくリリーさんも、プルミリエ家の使用人達もびっくり。そしてその知能の高さと大人しさ、リオ君と遊んでいる時のプルプルとした可愛さから使用人さん達にも受け入れられ、今では時間が許す限り水槽から出してもらってリオ君の傍に文字通りベッタリだという。



「確実に名付けの効果だね」

「それが決め手だろうけど、日頃から質の良いラピスラズリばかりを食べているから元々個体としての能力も高くて、名付けによって大きく能力が開花する素質を秘めていたんだと思う」

 リオ君とリリーさんの話が一区切りしたところでアベルが俺の方を振り返り、俺はアベルの言葉に頷き俺なりの考察を口にした。


 名付けで個を認識すれば能力が上がるといっても、個を認識するだけの知能がなければ意味がない。

 そして潜在的な力が低ければ、名を得たとしても能力の上昇もそれほど大きくない。

 飼い犬や飼い猫に名を付けても、犬猫の賢さ強さを大きく超えるような個体は滅多に発生しないのと同じことだ。

 そしてそのような個体は先天的にある秘めたる力ではなく、それの布石となる体験や訓練を経験している場合がほとんどである。


 つまりラピ君はただ名前を付けられたから能力が上がったのではなく、沢山の要因――これまでリオ君がスライムに対して愛情を持って丁寧に育てたこと、質の良いエサを与えていたこと、普段からよく話しかけていたこと、ラピスラズリスライム君のことは特に気に掛けながら育てていたこと等の要因が積み重なって、このように知能も能力も高くリオ君大好きなスーパースライムが爆誕してしまったのだと俺は予想する。

 きっとこの中のどれか一つでも欠ければ、大人しくして賢いスライムにはならなかっただろうし、リオ君が丁寧に育てていなければこんなにリオ君に従順なスライムにはならなかっただろう。

 まさに奇跡のスライムである。


 そう、奇跡なのである。

 こうして大人しくリオ君の肩の上に乗って人に対して攻撃的な行動を取らないのも、リオ君や周囲を汚さないように自ら意識していることも奇跡なのだ。

 一歩間違えば、名付けによって手に負えない存在になっていた可能性もあったのだ。


 大事には至らなかったが、これは俺がうっかり名付けのことを教えていなかった失敗である。


 名付けという行為の意味なんて知っていて当然である。

 スライムに名前を付けようとは思わない。

 名前を付けたとしても瓶の中に入る程度の小さなスライムに個を認識するほどの知能なんてない。


 やっちまったな。

 知っていて当たり前、そんなことしない、ならないと思って授業を進めていた俺のミスだ。

 というか、教える側として決してやってはいけないミスだった。


 ああ~~~~、やっちまった~~~~~!!

 家庭教師失格だ~~~~!!


 リリーさんはこのことをあまり重大に捉えていないのは、やはり貴族のお嬢様からだろう。

 しかし重大性に気付く人なら俺のこのミスは、一歩間違えば貴族様のお屋敷の安全にも関わる許されないやつだ。

 そして何より許せないのが、その結果でリオ君が手塩に掛けて育てたスライムが処分される可能性もあったということだ。


 結果的に大事にはならなかったが、物事を教えるということの難しさを改めた実感した瞬間だった。

 少し情けない顔になりながらアベルの方を振り返ると、アベルと目が合い俺の心の内を察してくれたのか厳しかった表情を少しだけ緩めてくれた。 


「確認しなかった俺にも責任があるし、この年まで生きものに自発的に触れる機会が少なかったうちの環境が特殊なのもあるからね。順番が入れ変わっちゃったけど、リオには今から名付けの意味を教えてあげるよ。それから、名前を付けちゃったならその責任は名付け親にあるからね。それが生きものに名前を与えるということ、今日の授業はその話になりそうだね。名付けについてはうっかり名付けをするのが大得意なレッド大先生の体験談を混ぜながらするといいかもね。つい最近もやらかしたばっかりだし」


 ああ~~~~、アベルが俺のうっかりを優しく許してくれたのかと思ったら、すんげーチクチク口撃がきた~~~~~!!


 そしてソウル・オブ・クリムゾンの中でソワソワ始めているチュペは、大人しくしてろ! あれは元気良く返事をしたお前も悪い!!

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