第932話◆閑話:後悔を想い出に
――どんなに後悔しないように生きても、後になればやっぱり後悔をするんだ。
グランがボソリと言ったその言葉でハッとなり、俺が何十年も信念のように思っていたことが一瞬で崩れたような気がした。
何十年も信念のように思っていたことが、二十年も生きていない人間の一言で崩れ去るのは衝撃的だったが、不思議と反発のようなものはなく逆に気持ちが軽くなり解放されたような気分になった。
最期まで笑顔で生き抜いたお袋の生き方に憧れ、お袋のように生きようとした。
お袋の死後、後悔だらけで辛気くさくなっている親父を見て、親父のような生き方はしないと誓った。
俺はハイエルフの血を引いているけれど、人間との寿命の差は理解しているから
だから親父のように後悔するようなことはしない。
人間の中でいることを選んだ俺は、何度も親しい者を見送ることになるから。
その時に後悔なく見送れるよう、できるだけのことをするようにして生きてきた。
だけどやっぱり親しい者を見送る時はいつも悲しくて、もっと時間があればと思う。
もっと時間があれば、もっとやりたいことがたくさんあったのに。生きているうちにやれることがもっとたくさんあったかもしれないのに。
後悔したくないのに親しい者を見送った後になって、生きているうちにやっておけばよかったことが次々と思い浮かぶ。
おかしいな……彼らと過ごす時間は大切に使ったつもりなのに、やり残したことはもうないと思っていたのに。
どうしていなくなった後になってから、やっておけばよかったことを思い付くのだろう。
それが何かはわかっていたけれど、親父のようにならないと誓った俺はそれを認めたくなかった。
親父と同じ気持ちになんかなりたくなかった。
いや……ホントは俺もお袋を見送った時、親父と同じように後悔をしていたから。
お袋の時間を少しでも延ばしたくてテムペスト様のとこに通い詰めて、苔玉にしごかれていた時間。
どうしてその時間をお袋のために使わなかったのか?
でもその時間は、俺にとっても大事な時間だったから。
俺に大きな影響を与えた時間だったから。俺が強くなることのできた時間だったから。
お袋との時間を選んでいたとしても後悔するような気がして、心の中の矛盾に罪悪感がこびりついた。
だから今度こそは後悔しないように。
笑顔で旅立ったお袋のように後悔なく生きるために。
なのにどうやっても親しい者を見送る時はそれは生まれ、毎度それに気がつかないふりをした。
俺は後悔なんかしていないと言い聞かせながら。
それは信念という名の呪いのようでもあった。
それを抱え続けて数十年、グランの一言でその呪いから解放された。
言われてみれば当たり前のことなのに、どうして俺は今まで何十年も頑なになっていたのだろう。
ハッとなって、地面に寝っ転がった体勢から体を起こしグランの方を見ると、地面に寝っ転がって目を閉じているグランの赤い髪の毛が眩しい夏の陽の光に照らされ、妙に眩しく鮮やかな赤に見えた。
目を閉じたまま、話し続けるグランの言葉が再び俺の心を刺す。
――そして後悔をするのは残される方だけじゃなくて、残して逝く方もなんだ。
――大切に思っているのは残された方だけじゃなくて、残して逝く方もだから。
笑いながら旅立ったお袋の顔をはっきりと思い出した。
年老いていたがすごく綺麗な笑顔だった。
それはまるでもうこの世に思い残すことがないほどに。
と、俺が勝手に思っていた。
馬鹿だな。
お袋はいつもそう。
いつも笑って、いつも周りを明るくする。
辛ければ辛い時ほど、笑う人だった。
お袋のことはよく知っていたはずなのに、どうしてそのことにこれまで気付かなかったのだろう。
気付いたら、悲しくて悔しくて後悔が押し寄せてきた。
後悔に押し流されて叫び出しそうになるのを無理やり抑え込むために、腕を抱き込み体を前に丸めた俺の横でグランの言葉が更に続く。
ちくしょう、グランのくせに説教をされる日がくるなんて。
でもそれは俺を否定するのではなく俺に気付かせるだけの言葉、俺がわかっていても向き合えなかったことを形にしてくれた言葉、俺が欲しかった言葉、俺の背中を押してくれる言葉。
――生きものなんて、何をやったって後悔するんだ。
そうだ、何をやっても結局後悔はするんだ。
わかりきっていたことなのに、それを無理やり否定しようとしていた。
お袋に憧れ、お袋のようになりたいと勝手に想像上のお袋を作り上げて、それは時間の経過と共に俺に都合のいい想い出となって、親父を認めない理由と親父に反発する俺を正当化する言い訳になっていた。
わかっていたんだ。
このままではいけないことも、今の俺と親父の関係はお袋が望んだものと間違いなく真逆なものだと。
お袋のように生きたいと思うなら、まずは親父と向き合わないといけないんだ。
お袋なら否定するより、理解しようとするはずだから。
だけど俺はまだガキだからすぐに素直になれないかもしれないから、いつか、きっと、そのうち、また今度――俺と親父には、それが可能なエルフの時間があるから。
後悔を想い出に変えるだけの時間があるから。
だからやっとほんの少しだけ、ほんの少しだけなら親父の方を向ける気がした。
一度丸めた体を起こし大きく伸びながら空を見上げた後視線を横にずらすと、言いたいことだけ言ったグランがいびきをかき始めている。
まったく……ついさっきまでは妙に大人びて俺の方がガキにっぽく思えたのに、今はもういつものグランである。
いつの間にか出てきた薄雲が陽の光を遮っているからか、先ほどまで光の加減で妙に鮮やかに見えたグランの赤毛も、今はもういつもの少しくすんだ赤にしか見えなかった。
それで張り詰めていたものが途切れてしまい、気付いたら地面に転がって寝ていた。
少しだけ親父と向き合えそうな気がしたから、俺が残ることを快く引き受けたのだが、いざ親父と話そうにも魔導具作りも付与も細工もさっぱりで会話に参加できず見ているだけ。
そして沈黙の作業時間が流れるうちに、グランと話した時は何とかなりそうだった気持ちがどんどん沈んでいき、作業が終わってもこのまま会話なく帰ることになりそうな予感がしてきた。
このまま何も変わることなく。
ハイエルフの里にいた頃、変な意地なんか張らずに付与や魔導具作りも真面目に学んでおけば、作業に参加できたかもしれないのに。
また、後悔。
後悔をしないように生きていたつもりが、やっぱり後悔をしている。
――エルフならまだ長い時間があるから、今なら後悔もいい想い出に変わるだけの時間があるんじゃないかな?
そうだ、まだ俺には長い時間がある。
後悔に気付いたが、すぐにグランの言葉が頭の中で蘇った。
今からでも学ぶことはできる。
でも今さら教えてくれって言うのは恥ずかしいから、まずは少しだけある知識を思い出しながら親父達の作業を見ていよう。
わからないことしかないけれど、それでも親父がやっていることから目を逸らさずにいよう。
そうだな、今さら親父に基礎から教えを請うのは恥ずかしいから、グランの家に戻ったらグランにこっそり教えてもらおう。
どうせ苔玉も一緒だから、察しのいい苔玉ならきっとグランの知らない専門的なことも教えてくれる。
「キキッ!」
「いて、この野郎何すんだ!」
そんな都合の良いことを考えていたら、苔玉がそれを察したのか突然俺の方を振り向いて木の実を投げつけやがった。
うるせぇ! 俺にだってくだんねー意地くらいはあるんだから、そこまで察しろ!!
「カリュオン、手が空いているなら赤毛が置いていった素材の仕分けをしておいてくれ」
「ん? ああ……グランが置いていったやつな。使えるかもしれないって色々置いていきやがって、何が混ざってるかよくわかんねーやつか」
親父が作業の手を止め、作業机の隅っこにとりあえず積まれているグランの収納から出てきたよくわからない素材を指差した。
あれを仕分けしろって、付与以上によくわかんねー気がするんだけど。
アベルが目を光らせていたと思うが、グランのことだからアベルの隙をついてやっべーものを混ぜていそうな気がする。
やっべーものが混ざってたらやっべーから、確認しておくか。
本格的にやっべーものを見つけたら、苔玉に預かってもらって……いて、また木の実が飛んで来た。
そのモサモサした葉っぱの中で、預かっておいてくれてもいいだろぉ。
ほらー、やっぱ変な素材が混ざっているじゃないか。
グランと知り合ってからは見慣れた、微妙に珍しくて危険な木の実やキノコ類。
簡単に手に入る場所に生えているようなものでもないのに、何であいつはこんなものを溜め込んでいるのだ。
とりあえず爆発したりビリビリしたりするキノコや木の実は苔玉いきだな。そんないやそうな顔をせずに預かっておいてくれ。
あいつ、コケコッ鉱も好きだよなぁ……これも今回はいらないから苔玉いき。
さすがにメイルシュトロックは混ざっていないな。あれは出そうとした時点で止めたからな。
んあ、マーモッ湯なんていう変な薬品、どこで手にいれてきたんだ……これも絶対使わないから苔玉に預けておこう。
それ、落っことして瓶を割るとすっげーうるさい叫び声みたいな音が出るから絶対に割るなよ?
グランが置いていった妙なものを仕分けして、やばそうなやつをポイポイと苔玉の方へ投げていたら、親父が作業の手を止めて顔を強ばらせているのが見えた。
千の時を生きたハイエルフの長老を強ばらせるグランの珍妙素材コレクションはさすがすぎるな。
ま、そんな奴が近くにいるから毎日が楽しいんだけどな。
グランも、グランに巻き込まれるアベルも、彼らのとばっちり食うドリーも、それに更に追い打ちをかけるシルエットも、最終的にお説教役になるリヴィダスも。
俺の周りには楽しい奴らがたくさんいる。
「変わった友だな」
いつもの無表情に戻り再び作業の手を動かし始めた親父が言った。
「ああ、変わってるから退屈はしなくて楽しい」
人間社会の暮らしはハイエルフの里と違い忙しなく、変化も速い。だから退屈はしない。
そして楽しいから時の流れが速く感じる。ただでさえ短い人間との時間が更に。
「そうか、ならば大切にしろ」
「うるせー、言われなくてもわかって……いてっ! だから木の実をぶつけんな!」
わかりきっていることを言われたから、つい悪態をついたら苔玉から木の実が飛んできた。
うるせー、お前は黙ってグランの置いていった危険物を預かってろ。
ああ、わかっているさ。
彼らとの楽しい時間もいつか想い出になって、それを見送る日がくることも。
きっとその時の俺は、後悔だらけなんだということも。
それでもその後悔すらも大切な想い出になるように、俺は彼らとの時間を全力で楽しみながら生きるんだ。
この日この後、俺はいつもよりもたくさん親父と話した。
今自分がどんなことしてどんな風に生活しているか、身の回りのことを。
親父は最近の里のことを話してくれた。
親父との距離はまだまだあるが、また今度、いつか、そのうち、次に会う時は今日よりも会話が増えているような予感がした。
そしていつか、親父との間にあるたくさんの後悔を想い出にできる日がきっとくる気がした。
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