第919話◆この世のいらないもの
風呂はいい、体だけではなく心までさっぱりさせてくれる。
綺麗になるだけなら浄化魔法で事足りるのだが、やはり心の疲れまでとるには風呂に限る。
まだ暑さが残る夏の夕暮れ時、ややぬるめの風呂に浸かり、その心地よさに大きく息を吐き出した。
それは怒濤のような今日一日を振り返り、漸く我が家に帰ってきたのだという安堵のため息。
午前中はタルバのところへいって、昼飯を食った後は箱庭へ。
箱庭ではなにがなんやらわからないくらい色々ありすぎて、ドロドロに汚れてヘトヘトに疲れて戻ってきたら突然の天気雨。
暑い日のカラカラに乾いた地面が雨に濡れるにおいが好きで、リビングの掃き出し窓から外に出ると空の高い位置に大きな虹が架かっているのが見えた。
方角は森の奥の方向か。
家のすぐそばまで迫る森の木々の遥か上空に掛かる大きな虹に思わず目を奪われた。
だがそれも一瞬。
箱庭にいっていた俺の代わりに夕食の支度をしてくれていたウルとクルが、洗濯物を取り込んでいなかったと慌ててリビングに飛び込んできた。
慌てて洗濯物干し場に走ると、何故か突然転がってきたバケツに躓いてこけてしまい、洗濯物を取り込むのを手伝ってくれようと俺の後ろついてきたジュストも、こけた俺に躓いてこけた。
しかも地面は降り出した雨で濡れており、最初にこけた俺も俺の後にこけたジュストも泥まみれになった。
それを見てアベルが文字通り上から目線でせせら笑ったので、近くをひょこひょこ歩いていたバッタを捕まえてぶつけたらマジギレしたのでその場から逃走、そして予想通り追いかけてくるアベル。
俺とジュストは泥で汚れてしまったし、アベルもこれから俺に足を引っかけられて泥だらけになる予定なので、洗濯物を収める役はカリュオンに任せて天気雨の中を庭を走り回った。
もちろんアベルもちゃんと転がして泥まみれにしておいた。
短い時間の天気雨だったけれど、たまには雨の中を駆け回るのも意味なく泥まみれになって遊ぶのは、子供の頃を思い出して楽しい。
なんだか楽しくて好きなんだよな、大人のパワーでやる子供の遊び。
そしてそういう遊びに巻き込める気安い友人がいて、それを楽しむ時間と心の余裕がある生活を送れている俺は間違いなく幸せ者なのだろう。
ま、アベルにはこの後どちゃくそ怒られたけど。
怒りながらも、ドロドロに汚れた俺に浄化魔法をかけてくれるアベルはツンデレ優しい。
雨はいつの間にか止み、雨のおかげで少しだけ涼しくなった庭でアベルに猛烈に小言をもらいながら浄化魔法でシュッシュッとされていると、森からヴェルとヴェルの肩に乗ったカメ君が帰ってきた。
二人で散歩でもいっていたのかな?
珍しすぎる組み合わせに目を丸くしていると、カメ君がピョーンと跳んで俺の左肩に移動してきた。
俺が帰ってきて嬉しいのかな?
ははは、照れるなぁ。
ただいま。そしてカメ君とヴェルもお帰り。
夕飯の支度はウルとクルがしてくれているようなので、今日の夕飯は彼女達に任せて俺は風呂へ。
浄化魔法をかけてもらったて綺麗になっているはずなのだが、やはりなんだかまだなんとなくすっきりしなくて。
箱庭の中で蝉から降ってきたものがね……樹液しか糧にしない生きものだとしてもやっぱりね。
それにユグユグちゃんに話しかけた後にも酷い目にあったから。
あんなに爽やかに優しく親しみやすい口調で話しかけたのに、何故か警戒されてしまったようで俺だけ一定距離以上近寄るなと小さな木の実をペチペチとたくさんぶつけられてしまった。
俺以外のメンバーは平気だっただのに、俺だけなかなか樹のそばに近寄らせてもらえなかったのだ。
強い敵意や殺意は感じられなかったのだが妙に警戒をされてしまった。
はー、ユグユグちゃんに拒否されて悲しいからぶつけられた木の実は慰謝料として回収しておくね。
俺にだけ飛んでくる木の実攻撃は何故か弓を持つ左手に集中している。
カブトムシを撃ち落とそうとした弓が恐かったのかな? ユグユグちゃんを狙ったわけではないけれど、角度によっては樹のどこかに当たるかもしれないから?
試しにキノコポシェットにズラトルクの弓をしまったら木の実ペチペチ攻撃は収まったので、やはり原因はズラトルクの弓だったようだ。
何でだろうなぁ……ラトのそっくりさんに貰った弓なのに。
名前もズラトルクの弓でラトが紛れ込んでいるのに、何でだろうなぁ。
ユグユグちゃんはラトが箱庭に植えた樹を三姉妹がゴーレム化したもののはずだから、ラトは植えの親みたいなもののはずなのになぁ。
うーん、お父さんイヤイヤ期? もしかしてユグユグちゃんは反抗樹なのかな? ま、ラトは酒臭いから仕方ないかー!
ところであの金色のラトそっくりさんは、ただのそっくりさんだっただけかな。
シャモアの顔なんて見分けがつかないから人間の目から見てそっくりなだけで、実は全然違うのかもしれない。
ユグユグちゃんの俺に対する警戒が解けた後は、ジュストの翻訳スキルを介してユグユグちゃんと意思疎通ができた。
なるほど、蝉もカブトムシもユグユグちゃんの眷属で樹液を吸うマナーがなっていないからお仕置きをしただけなのか。
その証拠に撃ち落とされたかっこいい角のカブトムシ君も、ヨロヨロしていたけれど生きていた。
ユグユグちゃんはまだ新米ガーディアンなので眷属や森に住んでいるものに舐められがちなので、今はそのすごさをわからせている最中らしい。
蝉君達はものわかりのいい子だからすでにわからせた後で、ヤンチャのカブトムシ君はまだまだわからせている最中らしい。
もっと成長すれば虫以外にも小動物や大型の生きものもわからせられるので、栄養になりそうなものを持って来たらお礼をくれるということ。
それでその栄養というのが、この世のいらないもの。
ええ……いらないもの?
いらないものかー……うーん、案外この世にいらないものってないんだよなぁ。
だってこの世のいらないものって言っているのに、そのいらないものをユグユグちゃんが必要としているだろ?
誰かにとって不要はものも、誰かにとっては必要なものなのだ。
本当に誰に必要とされない不要なものって存在しているのかな?
俺がそう答えるとユグユグちゃんはしばらく考え込んで、いらないものじゃなくてもいいから時々何かを持ってきてというお願いに変わった。
それから時々遊びにきて、色々な話をして欲しいと。
楽しかったこと、辛かったこと、面白かったこと、悲しかったこと、何でもいいからと。
それも僅かだけれど栄養になるらしい。
へー、やっぱりどんな小さなもの、小さなことでも不要なものなんてないじゃないか。
そうしてユグユグちゃんとちょっぴり仲良くなって戻ってきて、現在は風呂の中。
そこでボーッとユグユグちゃんと話したことを思い返している。
この世の不要なもの――とは。
魔法があり、魔導具があり、ある意味前世よりも便利な今世。
今現在俺が入っている風呂も入らなくても浄化魔法で体は綺麗になるし、先ほど慌てて取り込んだ外干しの洗濯物も浄化魔と乾燥魔法で解決する。
魔法が使えればの話だが。
魔法が得意ではない者、魔力が少ない者、俺のように魔法が使えない者には風呂も洗濯も必要だ。
うちにはアベルという何でも魔法で解決するマンや、魔力のほとんどをギフトに使っているが魔法もそれなりに使えるカリュオン、魔法がない世界からきたのに魔法が使えるジュスト、それに当然のように魔法が使える人ならざる者達がいるがいて、ことあるごとに魔法が使えない俺に浄化魔法をかけまくってくれるが、それでも風呂に入るし、洗濯もする。
だって、こうしてのんびり湯船に浸かる時間が好きだから。
天気のいい日に外干しをした洗濯物の、洗剤のにおいとお日様のにおいが好きだから。
好きだという理由で不要なものが、自分にとってはあると嬉しいものになる。
風呂でのんびりとしていると、食事の準備ができたと俺を呼ぶアベルの声が聞こえた。
俺が長風呂すぎるというお小言と一緒に。
誰かと一緒に食事をすることも、食事が美味しいということも、食べることを生きる手段だとしか考えないのならあってもなくてもいいことだけれど、やっぱり一人で食べるよりみんなと楽しく食べたいし、どうせ食べるなら美味しいものがいい。
腹だけではなくて心もいっぱいになるから。
この家で一人暮らしを始めた時は一人でも平気だと思っていた。
一人の気ままな時間は好きだしそれが欲しいと思うことも多いけれど、それと同じくらい誰かと一緒にいる時間も好きだし楽しい。
必要とか不要とかどっちが好きとかではなく、両方とも同じくらい好きなのだ。
それに不要なものを全部斬り捨ててしまうと、きっと全てが作業になって息苦しくなってしまうから。
不要は気持ちの余裕でもあるんだ。
風呂上がり、自分でもわかるくらいに洗剤の香りがする。
それも必要のないものであっても、好きなものの一つである。
俺はこの不要だらけの生活が大好きだ。
この世は不要なものだらけだけれど、本当に誰からも必要とされないものは存在しているのだろうか。
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