赤羽菜月 2.0 (2026)
「おかゆできたって」
「あーー、アリガト」
世の中は変化していって、私はそれに対応している。
稚内の冬は寒く、夫は風邪をひいた。
風邪をひいたなら、明日には帰らないとね。ここからさらに、1週間で北海道を回る旅なんて、現実的じゃないよ。家でゆっくりしたほうがいい。そんな話をエントランスでしていると、宿のオーナーがおかゆを作ってくれた。
彼は安宿の中でも数少ない個室である私たちの部屋をノックして、そのおかゆを簡易ベッドで寝転がる夫に手渡した。
「はい、おかゆ。梅干しと野沢菜くらいしか乗せてないですけど」
「アリガトウゴザイマ」と夫は言った。
オーナーは整った顔でニコリと微笑み、私の方を向いた。
「帰っちゃうんですか、明日あたり」
「あはは、そうなんですよ。残念ですけど。というのも、夫はもともと体が悪くて、旅の途中でも体調悪くなったら東京に戻ろうって前々から言ってたんです」
「そうなんですね。まあ、たしかにこの時期の北海道はめちゃくちゃ寒いですから、無理したらダメですね。うちもお客さん全然入らないほどの気温ですし。うん。冬休みで、例年なら大学生のサークルとか、家族旅行とかで、たくさん入るんですけど、ねえ。…ああ、さっき、1週間で道内を1周するっておっしゃってましたっけ?」
「ああ、そうなんです。もう札幌や小樽は見てきて、そこから旭川とか通ってぐっと北上して今三日目でして」
「へえー。雪とか大丈夫ですか?レンタカーですよね、多分」
「そうですね。だから、細い道だったりはほとんど入ってなくて」
「あー、ところによっては、除雪されてないですもんねえ」
「はい」
「ナツ、ナツ、コッチ」と夫が手招きする。
「あ、それでは、私はこれで。失礼します」
「あ、おかゆ、ありがとうございました」
夫は口を開けて、あーんして、と言わんばかりにおかゆに手を付けていない。
「自分で食べなさいよそのくらい」
「ンー」首を振る。
私は夫の口に無言でおかゆを流し込んだ。やっぱりたいしてかわいくないな、寝顔。
彼と出会ったのは、私がすべてを投げうって大けがをしてから1年後。私は、私を助けたオオバさんという中年男性のもとで、私は小さなスーパーの品出しやレジ、発注など、様々な業務をしていた。東京の端に位置するその田舎のスーパーでは、のんびりと時間が過ぎていく。とおもいきや、住宅街が近く、お客さんは夕方などにはぞろぞろとやってきて、せわしない日々を送っていた。
でも、せわしないからこそ、私の頭は空っぽになり、思い出して決着をつけなければいけないことなんて、どうでもいい、と思うように暮らすことができた。
オオバさんはおじさんらしい見た目のくせに清純派で、人情味があって、時々私を釣りに連れて行った。
ただ、気を遣ってくれているのか、私が飛び降りたあの橋のあたりには一度も連れて行かなかった。そういえば、オオバさんに関して嫌な思い出は一つもないし、させられたこともないし、命の恩人だ。
そう、ある日、オオバさんと奥さん、私とバイトの関くんで奥多摩でマス釣りをしていた時、私は夫に出会った。彼は一人で釣りをしていて、なにやらブツブツとよくわからない独り言をつぶやいていた。今から思えば、あれはロシア語だったのだが、よく聞こえなかった。
彼は中国とのハーフで、いわゆるガイジンというか、白人っぽさ全開の見た目ではないため、私たち4人は日本語が堪能な青年だと思い、話しかけた。もちろん、ブツブツなにか言ってる人に私や関くんは話しかけたくなかったが、オオバさんや奥さんはソウイウモノを放っては置けないのだ。
「どうですか、けっこう順調ですか。おっ、2匹入ってますね。じゃあこの辺がいいのかな」
「エ、ア、ゴメンサナ。マダ、日本語スコシ」
発音は悪かったが、彼の日本語理解力はネイティブに近く、オオバさんと彼はすぐに仲良くなった。
それから彼が街にある居酒屋やカフェに出没するようになり、カフェの常連である私とも仲良くなった。結果、なんか結婚してしまった。
不思議だった。あんなに男に遊ばれて、自分でも自暴自棄に遊んで、そんな私がこうもあっさり、過去のしがらみやトラウマがなぜか頭をよぎらず、数か月の交際でゴールイン。なんと婚約までセックスは一度もなし。
彼は日本で木材の輸出入の仕事をしていて、よく木の話をしてくれる。もうかれこれ知り合ってから4年も経つ。最初はつまらないと思っていた話も、彼の緩んだ表情や、時々ロシア語の混ざった説明など含めて、コンテンツとして完成されていて、ASMRのように癒しの効果がある。
思い出すと、私はなんだか楽しくなり、彼の口に熱い大きな米の塊を突っ込んだ。
「イレスギ!うおっ、дурак...ハハハ」
「プッ、ハハハハハ」と私も笑った。
ああ、でも、虎太郎、元気かな。唯一、夫と近いというか、嫌だなあと思わなかった男。持てるタイプでもないだろうし、結局弟っぽく感じてきて、そんな奴とセックスしているのが、どこか気味悪くて、会わなくなっちゃったんだけど。人としては、好きだったのかもな。
でも、好きでいうと、好き?好きってなんなんだろう。夫は、好きというより、【近い】【わかる】【こたつ】って感じ。なんていうのかなあ。
でも、それが一番私にとって、悪夢から覚めて朝を迎えた時に、あっこいつと二人で生きているんだ私、けっこう良い人生だなあって、そう思える。
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