菅谷勇利11

「今日はほんとありがとうございました。いい写真撮れましたよ」

ミナガワさんはミンさんにそう言った。


僕は、盆栽を見ていた。その幹は稲妻のようにうねっていて、葉はひどく丁寧に手入れされていた。


千葉県西側に位置する小さな駅前に、20階以上あるタワーマンション。

そこの15階にミナガワさんは住んでいた。


今日初めて訪れたが、まるで生活感のない部屋だ。美術館のようだった。


彼が裕福な生活をしていることは、乗っている車や彼の仕草、言動から読み取れたが、あらためて彼の部屋に来て、裕福・豊かというのは金銭的にだけではなく、蓄積された知識やセンス、生活習慣も踏まえてのことだと気づいた。


金銭状況と精神的な部分はおそらくつながっていて、金銭的に余裕があるからこそそういった精神的な部分も豊かになるのかもしれないし、それは逆の順番なのかもしれない。


僕も今の会社で問題なく10年ほど働いていったら、こうなれる気が少しだけした。それには多くの努力や運が要ることは明らかではあるが。ただ、その道筋は微かに見えなくもない。


大学の時にそんな道は微塵も見えなかっただろう。幻想的な世界に100%行くか、100%落ちぶれるか。そんなことを考えていたが、きっと大人になるにつれパーセンテージはどんどん刻まれていく。


現実的に豊かな世界や少しだけ貧相な暮らしなど、教科書や狭い人間関係の中の友人が教えてはくれなかった、数多の違いを細かく持つ生活が数年後に待ち受けているのだろう。地獄を見てもまだ先があり、天国を見ても生活は続いていく。


「でもミナガワさん、けっこう途中から要求多くてびっくりしました」

ミンさんはモニターに映る自分を眺めつつそう言った。

ミナガワさんはハハハと笑って、スムージーを飲んだ。


-ぼくちんさあ、違和感とかないわけ?-

ある。


トマトとモッツアレラチーズのカプレーゼが限りなく透明なガラスでできたデスクの上に乗っていて、水草と流木だけが入った水槽からはエアーポンプの音がする。


今日撮った写真が次々と大きなモニターに映し出される。


ミンさんが花畑の前で手のひらを広げ、太陽光に反射する青い液体を見せている写真。


池の前でミンさんが走っている様子を水のしぶきとともに撮っているもの。


僕が撮った、風に揺れるヒマワリ。空をバックにしていて、限りなくシンプル。


「ミンさんも、遠慮せず食べてくださいね」とミナガワさんは言った。

続けて、「スダッチさんなんて、もうパクパク食べてるから、気使わずにね」と僕を指して言った。


「はい!」と言って彼女はトマトとモッツアレラチーズ、バジルを一気に大きく口に放り込み、「おいしい!」と言った。

彼女の口からオリーブオイルが垂れて、「あっ」と彼女は言って口を手の甲で拭く。


「ちょっとお手洗い借りてもいいですか?」とミンさんは言って、廊下の先にある、一人暮らしとは思えないほどリビングから遠いトイレに行った。その最中には書斎まである。




ミナガワさんはYouTubeにアップする映像の編集をしつつ、トイレの方を指さして「かわいいですね」と言った。


「彼女、危ないとか思わないんですかね」僕は言った。


「何が?」


「いや、だから初対面の男性の家に来るなんて、やばくないすか。…なんか普通に流れで来ちゃいましたけど、僕も。でもなんか、違和感はあるんですよね、正直」


「ああ」


「うーん」とミナガワさんは映像編集の手をやっと止めて考え込んだ。



僕はネットから知り合う女性が嫌いだ。SNSでもマッチングアプリでも。


性的なにおいがする。

会社で話す女性からは、一切、性のにおいがしない。


今後の人生でどうでもいいか否か。そこが圧倒的に違うからだ。


旅の恥は搔き捨て


ネットから会って、気軽に疑似的な恋を演出して口説いて、済んだらブロック。


今後会うことはないから、どんな異常な行為をして嫌われようと、何も感じない。


そんな本来あり得ない、まるで完全犯罪の連続殺人犯のようなことが簡単に行えてしまう。


いや、このたとえはあまりしっくりこないかもしれない。

でも、何かが間違ってい…


「あの子ぶっ飛んでると思うんですよ」

ミナガワさんは声を細めて言った。


「え?」


「いや、だから、ミンさん。…大学生じゃないですか、彼女」

「そう、ですね」


「なんですけど、なんかこう、小学生みたいなピュアなところがあって、それでいて、被写体としてカメラを前にすると、急にチェコになるんですよ…モルダウ…」


-なに言ってんだ、このおっさん?-


「モルダウが流れるんです。ああ、クラシックなんですけど。うん。だから多分、芸術に全部割いちゃってると思うんです」


「はあ」僕には意味が分からなかった。


「あの域に達するには、色々普通の感覚を犠牲にして、深く入り込まないといけなかったと思うんです。だから幼くなってしまってると思うんですよね」


「なるほど」意味が分からなかった。


「まあとにかく、セックスとかそういうことは、彼女全く考えてないと思いますよ」


ミナガワさんの口からセックスという単語が出ることは、どこか彼の落ち着いた雰囲気に似合わず、笑いそうになった。


-セックスかあ。もしそういう雰囲気になったら、人生初の3Pだな-

それはありえないよ。それにもう、性病検査なんてしたくないし。


-でもミンさん、処女っぽくね?だったら性病も何も-

とにかく、嫌なものは嫌だ。


-なんで-


そんなことをしていた自分を、もうすでに嫌いになったからだよ。


-ぼくちん、もうそろそろ踏ん切りがつきそうだな。俺、消えたくねえよ-




2時間後、僕らは健全に何もなく解散した。

思えば、家に来た理由は「それぞれ撮った/撮られた写真/映像の感想を共有する」というもので、思ったよりずっと白熱していた。


ミナガワさんの車から僕ら二人は降りて、別方面の電車に乗った。

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