菅谷勇利10

「はい、終わりました」


腕にまったく痛みを感じず、拍子抜けだった。


「それでは、この部屋を出て右に進んでくださーい」


「はい」


2回目の接種が終わった。あらためて、少し安全に近づけた。

油断はできないけど。

-そう思うんならビッチと寝るなよ。馬鹿かぼくちん-


「ああ、スガヤクン」

会社の先輩だ。

「あ、どうも!ジェイコブさん。一緒の時間だったんですね、ワクチン」


「ウン。接種は痛かった?」

「いえ、ぜんぜん。意外と」

「ボクも全く。ただ副反応で39度の熱を出す可能性がタカい。カロナール常備しておくべしね」


-相変わらず日本語うまいな-


会社には、多くの外国人がいる。

英語や中国語が飛び交っていて、僕も勉強中だ。


自分の出せるレベルよりも低い場所に就職して、興味はなくとも楽に日々を過ごす未来もあったかもしれない。

それでも僕は挑戦した。

そして映画業界における、世界トップクラス企業の一つに潜り込めた。


僕は映画について、まだまだ知識が足りず、僕よりも適任で熱心な人たちが続々と応募してきただろう。


その中でも僕が数少ない内定者の一人として選ばれたのは、僕自身もよくわからない。


「最近なんか映画見ました?」

接種後の待機室へ向かう中、ジェイコブさんに聞いた。


「テツガクテキな80年代のイギリス映画が3作、また観ていたよ。あと、今月の新作は4本くらい」


僕は、人生がうまくいっていると感じることがある。そう、前々から思っていた。


その一部をもっと噛み砕こう。


あることを好きで好きでたまらない、人生をかけて取り組んでいる人たちしかいることが許されない場所に、趣味の一つとして時々たしなむ程度の僕が存在できている。


そして、なぜか僕の大学時代学んでいたことや趣味で取り組んでいたことが活かせる部署に偶然配属され、人間関係にも恵まれ、軋轢もなく、のびのびと日々生活できている。


このことだ。


菜月は僕のことを2年前、ボロクソにけなした。僕はその時自分に酔って、ハイになっていて、それらの言葉を無視したつもりでいたが、ボディーブローのように効いていて、彼女以外にも様々な人に馬鹿にされて生きてきた。


自分には何もできないと思っていた。


なのに、なぜかできてしまっている。


このことだ。


「スガヤクンは何か観た?」

僕らは待機室に並べられた椅子に座り、経過観察しなければならない15分をスマートフォンの時計で確認した。


「一作です。アニメ映画の新作を。サブスクサービス使って観てました」


「なるほど。どう思った?」


「…そうですね…」


どう思ったんだ。


面白かった。


そのくらいだ。


-いやいや、ぼくちん、その映画の監督についてツイッターとかいろんなサイトで調べたりしてたじゃん。作品の考察サイトとかも観てさ-


でもそんなの一言じゃまとめられない。


-パッと思いついたことを言えよ。観た時や調べてる時の感情を全部込めて-


「綺麗な終わり方だったんですけど、うーん、幻想的な幼少期から一歩も出ることができていない、って感じでしたねー。それが閉塞感あって、それを観客に強要しているのが、少し押しつけがましいかなと」


「いいね」

彼はそう言って、スマートフォンをいじりはじめた。


僕は迷走神経反射やアナフィラキシーショックに心の奥で怯えつつ、目を閉じて昼寝を始めた。

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