檜佐木淮一 1,000→1

「じゅんちゃん、奏多かなたを送ってきて」

望海はもう仕事用の地味なセーターを着ていて、洗濯物を干し始めていた。


「ええ、じゃあもう行かないと。今日9時から在宅ワークだから」

俺は卵かけご飯を食べるスピードを速めた。


「えー、そうなの?先に言っといてよ」

「ごめん、今日も保育園行ってくれると思っててさ」


奏多はYouTubeでの子供向けチャンネルに目を奪われている。

俺に似ず、けっこう静かな子だ。

性格は望海に似たらしい。


「あれ、お前、水筒は?」

バッグを見ると、水筒が入っておらず、奏多に玄関前で確認した。

望海はもう職場へ出発してしまった。


「水筒、ママ入れなかったよ」

「ええ~」

また忘れたのか。


「仕方ない、途中で買ってこう」

「たんさん?」

「いや、炭酸はダメ」


自転車のチャイルドシートに奏多を乗せ、走り出した。

もう10月、少し冷えてきたな。





あああ



またか



またこの夢だ。


「おはよう」

望海がまた俺の家に来ている。


まだ同棲はしていない。

夢の中では暮らしているのに。


「今何時?」と尋ねると、10時と彼女は言った。


「せっかくの土曜なのに、早起きできなかったな」

10時なんてもったいない。


「え~、土曜だからこそたっぷり寝た方がいいじゃん」

彼女はそう言って、俺のゲーム機を勝手に起動して、難易度の高いゲームソフトを遊んでいた。


「それ、むずいでしょ。難易度落とした方がいいよ」

「いいよ、これで」

「ああ、そう」


そういえば、望海は結婚願望とかあるの?


この質問が喉から出かかって、やめた。


夢で経験した人生をこっちにまで影響させちゃだめだ。

彼女にも考えがあって、そして、多分結婚願望はない。


彼女はゲームをいったんやめて、俺に飛びついてきた。

「どしたの」と聞くと

「なんか好きだなーと思って」


「望海は結婚願望とかあるの?」

「え」


「いや、俺も好きだし、将来的にどうなのかなと思って」


「まあ、もう24だしね。友達でも結婚してる人いるし」

「うん」


彼女は抱き着いたまま、俺の腹あたりに顔をうずめて沈黙していた。


「じゅんちゃんは人生でやりたいことないの?」

「え?」

「なにか、夢とかそういうの」

「ああ…」


夢…

俺ってそういうのあったかな。


そういえば結婚なんて夢で見て衝動的に口走っちゃったけど


いや、もちろん付き合ってからけっこう考えてきたことではあったけど


もし結婚して、そしてもし子供ができたら、


俺の人生は子供にささげることになりそうだ。


それでいいのか?

すべてをなげだしてでも挑戦したいことはないのか?


恋人や友達、家族を裏切ってでも達成したいことはないのか?




「夢は健康的な家庭を築くことだよ」


気づけば、望海の頭をなでていた。


「そっか」

と言って彼女は俺から少し離れ、真剣なまなざしで俺を見た。


「変なことはしないって約束できる?」と彼女は言った。


「変なこと?」


「急に英語覚えてしばらく海外行くとか、実は私の好物がめっちゃ嫌いとか、すごい性癖あったりとか、そういうこと」


なんだそれ


「俺はそんなことないよ」


「じゃあ、何年後かにまだ気持ちが一緒だったら、絶対結婚したい」


何年後か…


まあいいか。


ちょうどいいか。


「ありがとう」

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