第9話 ムサシ

 ポラリス号は再びワープフィールドを進んでいた。予定通りなら今回でワープは最後になる。次のキリー空域からマワール星系のタラゴンまではすぐである。通常航行で十分だ。

 

 ミゲルはシャワールームに居た。だが独りでは無かった。ムサシが居た。ムサシはソワソワと落ち着きが無く、勝手にドアが開かないかと期待していた。

「俺の船に乗せるからには綺麗にしていて貰わないと困るからな。衛生面の問題もあるしな。それに、汚いと皆に嫌われるぞ」

ミゲルはムサシに言い聞かせた。

「フィーン、フィーン」

ムサシは言葉を理解してか知らずか、哀れっぽい鳴き声を上げる。

「泣いても無駄だ。諦めろ」

ミゲルはシャワーヘッドを掴むと、暴れるムサシを押さえ付けて、足元からお湯で濡らしていった。ムサシはイヤイヤをして、何とかシャワーから逃れようと抵抗する。全身を濡らしたところで、ムサシはどんよりと諦めた。戦意喪失、といった風情で身体を硬直させたまま、突っ立っている。

 

「大人しくなったな。綺麗にしてやるからな」

ミゲルは笑いながらシャンプーを手に取ると、ムサシの体に塗りたくり泡立てていった。犬の体臭とシャンプーの人工香料の匂いが入り雑じって、シャワールームに形容しがたい臭気が充満する。だが、生物とはこういうものであろう。ムサシはしきりに口の周りを舐めて、気分を落ち着かせようとしていた。

 

「よし、濯ぎだ」

ミゲルはシャワーで泡を流していった。すっかり泡を流してシャワーを止めると、ムサシは遠慮無くブルブルと体をドリルの様に震わせて水分を飛ばす。

「おいっ! 待て……って、もう遅いか」

シャワールーム中に飛び散った水滴で、ミゲルはびしょ濡れになった。

「こいつ。やったな!」

ミゲルはワシャワシャとムサシの体を揉む。ムサシは興奮して体をくねらせ、濡れた体をミゲルに擦り付けようとした。

「待て、毛皮を乾かさんとな」

ミゲルはムサシを抱き抱えると、脱衣所の洗面台の上に置いた。タオルドライしてからドライヤーをムサシの体に当てる。すっかり乾かすと、ミゲルはムサシを抱いて操舵室へ向かった。

 

「ここが俺の仕事場だ。中々良いだろ?」

ミゲルはムサシを床に下ろすと、頭を撫でた。

「船長ったら、ムサシに首ったけですね」

アリッサがクスクス笑う。確かにいい歳をした中年男が小さな柴犬を溺愛する様子は、傍目に見て笑えるものだったに違いない。だが、可愛いものは可愛いのだ。

「船長、犬を可愛がるのも良いですが、ここには連れてこない方が……。ここは操舵室ですよ」

ニライがやんわりと抗議した。

「何だ、ニライ、お前もしかして犬が苦手なのか?」

ミゲルはからかうように言う。

「いえ、苦手と言うか、ここでうろちょろされると気が散ると言うか……」

いい淀むニライにムサシは突撃した。尻尾を千切れそうな程ブンブン振りながら、軽くフットワークを効かせて右へ左へと跳び跳ねる。

「ワン!」

ムサシはニライにじゃれついた。脚にしがみつき、ハアハアと荒い息をして腰を振る。一同はどっと笑った。

「ムサシ、ニライは雌犬じゃ無いわよ!」

アリッサが腹を抱えながら叫ぶ。

「おい、こら、止めろ」

ニライは手でムサシを押し戻した。ますます興奮したムサシは、ニライの腕をを所構わず甘噛みする。

「あっ、こいつ、噛みましたよ!」

ニライは大袈裟に手を上げてミゲルに訴えた。

「甘噛みだろ。遊んでいるだけさ」

「止めろって!」

ニライはムサシを睨み付けた。ムサシはピタリと噛むのを止めた。

「おっ、分かってくれたか」

ムサシはおもむろに片方の後ろ足を上げると、ニライの脚にオシッコを引っかけた。焦るニライを尻目に大きく口を開けて欠伸あくびする。

「ちょっと! 何なんだよ。船長~」

「馬鹿にされたな」

「勘弁してくださいよ!」

「まあ、そう怒るな。床は俺が掃除するから。それより、ムサシのトイレを作らなけりゃな」

 ミゲルは床に溢れたオシッコを雑巾で拭き取ると、トイレ用の箱を探しに行った。

「ハルカ、ちょっと良いか?」

「何ですか?」

「苗を収納しておくプラスチックの箱な、あれ一つくれないか?」

「え、ええ。良いですけど……」

「有り難う」

箱を手に入れると、ミゲルは船長室へ入った。クローゼットからタオルを一枚取り出す。

「これを箱に敷き詰めて……っと。これなら毎回タオルを洗えば良いしな。臭いを着けておけば大丈夫だろう」

ミゲルは先程の雑巾をトイレに置いた。ムサシを連れてきて臭いを嗅がせる。

「いいか、ムサシ。次からトイレはこの箱にするんだぞ」

ムサシはフンフンとしきりに臭いを嗅いでいた。犬は自分の尿の匂いの付いた所に再び排泄する習性がある。きっとこれで大丈夫だろう。ミゲルは満足気に頷いた。

 

 ミゲルはムサシを抱くとベッドへ仰向けになり、胸の上に置いた。ムサシはミゲルの胸の上で、ジタバタと身体を揺する。ミゲルはムサシの頭から尻までゆっくりと撫でてやった。柔らかな毛皮の感触が手に心地よい。数回撫でてやると、ムサシは落ち着いて頭を前肢の上へ乗せてじっと動かなくなった。

「ムサシ、俺達はな、人間で一杯になった地球から、新たに住める惑星を探しに宇宙へ来たんだ。もし人間が生存可能な星を見つけたら、人類史上の快挙だ。お前の名前も教科書に載るかもな? まあ、お前に言っても分からんかな?」

ミゲルはムサシの目を覗き込んだ。ムサシは大人しく耳を傾けて、真っ黒な濡れた瞳でミゲルを見つめる。まるで貴方の話は全て理解していますよ、とでも言いたげだった。

「知ってるか? 初めて地球軌道を周回した動物は犬だったんだぞ。昔ソビエト連邦という国があってな、スプートニク二号という衛星に犬を乗せて打ち上げたんだ。実験は成功した。だが、地球を三週したところで衛星内の温度が上昇してな、地球からはどうにも出来なかった。犬は死んでしまったんだ。当初の計画では犬は生きたまま帰ってくる筈だった。科学者達もそのつもりでいた。だが政治家がプロパガンダの為に、計画を急がせたんだ。それで不完全なまま打ち上げられた。酷い話だよな。政治が絡むとろくなことが無いのさ」

ムサシはフンッと鼻を鳴らすと、ミゲルの口を舐めた。

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