第8話 賞賛

「それで、義理兄さん、驚きましたよ。まさかミステリーを書かれるとは」

「霧江が、あんなことになってね。どうにも塞ぎ込んで、呆然としてしまったんだよ。それで、自室の原稿用紙をぼんやりと眺めていたら、霧江にね、書けって、夢を叶えるんでしょって、叱咤激励する声が聞こえてね。多分、悲しみのあまり幻聴が聞こえたんだと思うけどね。けど、それで、どうしても書きたくなってね。そして書きだしたら止まらなくなってしまって。数日間も気を失うまで書き続けてしまったよ」


 声は聞こえたのだ。たしかに。それは霧江とは似ても似つかない声だったが。執筆中は、壮大で荘厳な音楽に身を委ね、陶酔し、のめり込んでいたため、気にならなったが、たしかに、原稿用紙から、声、いや、意志のようなものが感じられた。それは、じわじわと心を侵食し、原稿用紙の中へと引きずり込まれる感覚で、たしかに、こう言っていた。もっと、書け、もっと、強く、激しく。激情のままに、悲しみのままに。全てを吐き出せと。もっと魂を差し出せと。それは霧江の変わり果てた声かも知れない。霧江ではないかもしれないし、違うと証明することも出来ない。


 それに、あの傑作を世に出すためには、ドラマチックに仕立て上げたほうが、後々のためだ。話題にもなるだろう。彼女の死を利用する様で、多少、両親の呵責はあったが、彼女なら許してくれる。彼女のことは私が一番よく知っている。


「きっと、霧江さんも、義理兄さんのこと、見守っていますよ」

「すまない、またしんみりさせてしまったね」

「兄さん、今後は童話作家では無く、ミステリーでいくの?」

「いや、やはり私は、童話作家でやっていくさ。この作品だって、健二君や他の編集者が読んだら、稚拙過ぎて笑われてしまうかも知れないしね」

「笑うなんて、そんなことは」

「まぁ、ミステリー初心者の作品だと念頭に於いて、手心を加えた上で、読んで貰いたいね」

「分かりました」


 謙遜は美徳であるとする日本人に、このエピソードは好感を得るだろう。作品が出版された際、著者の人間性を気にする者もいるだろう。それに大言壮語で、尊大な小山田とは対照的になる。これでやつを貶めることもできるはず。『呪い』とは、こうやって掛けるんだよ。小山田先生。


 小山田は、文学とは知性で読者を唸らせ、知恵比べで勝つことさと大学時代に私に向かって言い放った。童話など、論外。あんなものは教養の無い婦女子が暇潰しに書くものだと。教養も知性も、知恵も要らない。あんな子供相手の単純な物語など、良く書く気になるねと宣われたのが、つい、昨日のことの様だ。全く持って、性根の腐ったヤツだと当時から思っていた。楽しい記憶は、すぐに忘れていくのに、嫌な記憶はいつまでも心に残り続ける。忌々しい。忌々しい。忌々しい。


 不意に、腕に訪れた感覚に反射的に手が動く。パシンと乾いた音が鳴り、そして自分の腕を見る。しっとりと汗をかいた腕に、小さな黒いカスと、その周りの赤い血。鬱陶しい。不快なヤツらめ。もっともっと叩き潰せたら、気分がいいのに。もっと、もっと叩いて、潰して、殺せたら、気分いいのに。なぜだか赤い血がやけに美しく見える。


「まぁ、蚊ね。古い網戸であちこちに小さな穴が出来てるせいで擦り抜けてくるから、どうしようもないわ」

「あぁ、蚊取り線香を焚こうか。僕が、お義理母おかあさんに言って貰ってくるよ。少しは効くかもしれない」

「済まない。頼むよ、健二君。寝ている時に耳元に来られるのは、我慢ならないんだ。いまから焚いておけば、きっと大丈夫だろう。それにしても、蒸し暑い。今夜も酷い熱帯夜になりそうだ」


 そして寝苦しい熱帯夜を超え、翌日の朝、彼らは帰って行った。私の原稿を持って。予想では、三日後の午後にでも、連絡が入るだろう。その時の健二君の動揺する姿が楽しみだ。


 突然鳴り響いた電話のベルの音。普段であればその不躾で不快な音に苛付かされるところだが、いまは妙に心地よい。階下から私宛だと告げる母の声に返事をし、電話口へと降りてゆく。受話器を受け取り、平静を装い、落ち着いた口調を心掛けながら『もしもし』と相手に問いかける。


「もしもし、健二です。義理兄さん」

「やぁ、健二君。どうしたんだい? 原稿に不備でもあっただろうか?」


 あるはずもない。そんなことは百も承知で問いかける。


「いえ、原稿有難う御座いました。それでですね、義理兄さん、頂いていたミステリーの原稿なんですが、読ませて頂きました」

「ほお、もうかい? 随分と早いね」


 読みだしたら止まらず、一気に読み終えたのだろう。最初の数行を読んでしまえば、もう最後まで目を離すことは出来ないのだから。健二君がいつになく、興奮しているのが、受話器から伝わってくる。


「義理兄さん、これはすごいですよ、間違いなく傑作です。物語、文章、構成、魅力的な登場人物、奇抜なトリックに、斬新なアイディア。こう言っては、なんですが、まさか義理兄さんが、こんな作品を書けるとは思いもよりませんでしたよ」

「いや、お世辞かい? 勘弁してくれ。私の原稿で、あまりそういう反応をされたことが無いので、反応に困ってしまうよ」

「いえいえ、お世辞ではなく、これは、亡くなった河野原先生の傑作に匹敵する作品ですよ。いや、それ以上かも」

「随分と持ち上げるねぇ。しかしそれは流石に言いすぎだよ、健二君」

「いえ、そんなことありません、それでですね、義理兄さん。この原稿を、ウチのミステリーを担当している者にも回して、読んで貰ったんですが、私と同じ反応でしてね。是非、義理兄さんに直接お会いしたいと言ってるんですがね、どうでしょう?」

「そうなのかい? では、そうだね。いつでも言ってくれれば出向かせて頂くよ」

「では、明日でどうです? 朝九時に迎えに行きますので、如何ですか?」

「ははっ、随分と急ぐんだね。いいよ、問題ない。では、一張羅を着て伺うとするよ」

「すみません、急な事で、どうもミステリー部門の者が焦っていましてね。ウチがもたついている間に、他の出版社に回されたら大変だと」

「私は、他に持って行ったりしないさ。長年童話作家としてお世話になっている御社を裏切るようなことはしないよ。君もいるしね」

「有難う御座います。では、明日伺いますので」

「わかった。では、明日」


 ふつふつと心の奥底から湧き出る感情。堪らなく心地いい。生まれてこの方、こんな気持ちになったことも、こんなニヤけた表情もしたことが無い。口から”ヒヒッ”と気味の悪い笑い声が漏れてしまう。全身に力が漲り、いても立ってもいられない程、心が、魂が、高揚している。


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