第7話 ミステリー

 いままで一度だってこんなことは無かった。いままでの作品は、何度も推敲を重ね、何度も手直しをしてきた。最終で雑誌や本に乗せたものですら、読み返せば、書き直したい場所が必ず出てくるのに、この小説には、そういったところが見当たらない。完全なのだ。だが、あくまで自分で遂行しただけだ。他者から見れば違うものだ。自分で違う視点から見れば、きっと何かしら指摘点が出る。健二君い見てもらおう。彼ならば長年、私の作品に携わり、編集として数々の作家の作品をみてきている。


 そして改めて、読んだが、これは間違いなく傑作だ。これを読むすべて人が、最初の数行で、物語に惹き込まれ、没入し、翻弄され、感涙するだろう。皆が驚き、感嘆詞、感動する。


 しかし一番の疑問は、これが童話ではないことだ。間違いなくこれはミステリー。推理小説だ。犯人による奇抜なトリックを、斬新な推理と破天荒な行動をする探偵が、複雑に絡み合う謎を、次々に解き明かし、犯人を追い詰め、暴く物語。生き生きとした登場人物。張り巡らされた伏線。手に取ってしまいたくなるようなタイトル。本当自分で書き上げたのかを疑いたくなる。しかしそれは間違いない。脳内に溢れ、湧き上がってくるアイディアを、脳を最大限に活用し、文章化した感覚もしっかりとある。私の作品に間違いないことは事実だ。


 童話作家として、いままで目もくれなかったミステリーなどを書き上げてしまうとは。しかもこんな傑作を。正直困惑する。今後もミステリーを書きたいなど、まったく思わない。やはり私は、童話が書きたいのだ。童話の傑作を。しかし、私は、才能に開花した。次は童話でも、実力を発揮できる。最高の童話を書けるはずだ。とにかく、いまは疲れた体を休めるために眠ろう。きっと、今夜も寝苦しい熱帯夜になる。しかし、いまの体力も失い、心も何かが抜け落ちた私は、熟睡できるだろう。心にぽっかり空いた穴には、困惑と、不安、そして今後の希望で埋められ、彼女の死の悲しみは、ほんの欠片程度しか残ってはいなかった。


 次の日の朝、目を覚ました私は、階下に降りると受話器を取り上げ、記憶している番号を指で正確にダイヤルを回し、健二君の会社へと掛ける。呼び出し音が、四回目の途中で、ガチャッと音が鳴り、野太い男性の声で会社名が告げられる。慌ただしく、忙しない喧騒が背後から聞こえてくる。電話の相手に健二君の名を伝え、代わってもらうように告げると、お待ちくださいと言い、大声で、彼の苗字を背後に怒鳴るのが聞こえた。


「健二君、調子はどうだい?」

「えぇ、僕のほうはぼちぼちですね。義理兄さん、このたびは、こんなことになるなんて」

「あ、あぁ、そうだね。彼女は本当に気の毒だった。私も突然のことで、取り乱してしまったよ」

「どうかお気を落とさずに。お仕事のほうはお気になさらなくても大丈夫ですから」


 彼や、彼の会社にとって、私などいてもいなくても大丈夫なのだ。気になど最初からしていない。言葉の端から伝わる真実に苛付かされる。


「ありがとう。でも、もう大丈夫だから」

「そうですか。もし、無いか僕にできることがあったら言ってください。出来る限りの事はしますので」

「それで、仕事のことなんだがね。こんなことになってしまって、渡せていなかった依頼のあった原稿なんだが、どうすればいいかな? そちらに届けに行ってもいいのだけれど」

「いえいえ、そうですね、明後日はいらっしゃいますか?」

「あぁ、大丈夫だよ」

「では、明後日の夕方、祥子と伺いますので、その時に」

「そうかい。では、待っているよ。それとなんだけどね。ちょっとしたミステリーを書いてみたんだが、読んで貰うことはできるかな?」

「義理兄さんが、ミステリーですか?」

「あぁ、ちょっとした心境の変化でね。君も、書いてみてはと言っていたじゃないか」

「あぁ、あの小山田先生の話をした時ですね」

「どうかな? 読んでみてくれるかい?」

「えぇ、勿論ですよ。伺ったときに預からせてもらえるんですよね?」

「うん、用意しておくよ」

「わかりました。童話作家の義理兄さんの書いたミステリーがどんなものか、すごく興味あります」

「自分で言うのもなんだが、傑作でね。小山田先生を抑えて、大賞を取ってしまうかもしれないね」

「まさか、そんな。でも、そうなったら僕も嬉しいですよ」

「それでは、明後日に。例の酒を用意して待っているよ」


 そう言って、黒電話の受話器を静かに置いた。義理の弟との何気ない会話で、なぜ私はミステリーを書いたのかが、鮮明に分かった。そう。この愛悪の絶望の深みで、核のはミステリー以外有り得ないのだ。あの作品がヤツに劣るなんて、想像も出来ない。いまの私からすれば、あいつなど、ただの凡庸な、十把一絡げの、有象無象の作家のうちの一人に過ぎない。私の作品を読んだとき、あいつはどんな顔をするのだろう。きっと、その顔は、私の絶望の和らげるおかしな顔に違いない。お前も慟哭してみるがいい。可哀想な小山田。


 そして健二君は、妹の祥子を伴い、策欲のつまみを用意してやって来た。登園いつものように騒ぎながら酒を酌み交わすこともなく、静かな酒宴となった。まだ彼女が死んでから日が浅いのだ。妹も霧江とは面識があり、何度か共に食事をしたこともある仲だ。居た堪れなさそうな表情で、両親と俺に残念だったね。いい人だったのにと言った。そして両親との食事も負え、私の自室に上がり、酒を飲み始めたのだった。


 最初は気を使い、当たり障りのない会話でちびちびとりながら、健二君が持ってきてくれた老舗の塩辛を摘まんでいた。だが、酒が入るに杖、話もいつも通りに近くなり、そして次第に話題は小説へと切り替わっていった。当然作家と編集者の間柄、普通に会話が続けば、ここに行き着くのは自明の理。当然の理だ。

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