第6話 完成

 大音量で脳内に鳴り響く古典音楽に身を任せながら、一心不乱に魂を削り、インクという私の黒い血で、文字で埋め尽くすように原稿用紙を黒く染め上げてゆく。時間の感覚もなく、ただただ、酔いしれる。あれほど重かった体も、心も、いまでは何も感じない。執筆するということはこういう事なのか、作家を十数年続けてきて初めて理解できた。才能とはこういう感覚だったのだ。溢れ出る文字や言葉、文章が止まらない。きっとこの時の私の姿には、鬼気迫るものがあっただろう。


 そして気づくと、無機質な白い部屋のベッドの上だった。眩暈と頭痛。強烈な疲労感。腕を見ると透明の管が上へと延び、透明の液体が入った透明の袋に繋がっていた。途中のプラスチック製と思われる透明の筒の中では、規則的にぽたぽたと落ちる液体が見えた。徐々に記憶が脳裏に浮かび始める。ポタポタと血のように滴り落ちる黒いインク。驚異的な速さで文字が埋まってゆく、原稿用紙のマス目。たしかに日本語だが、書き殴っているせいか、いつもの私のクセのある文字ではない、何か違うものが混ざったような字体。見ようによっては古代の文字というのに近い感覚のする文字。本当に私が書いたのか。


「あぁ、良かった。お目覚めになられたんですね」


 開きっぱなしの部屋の扉から入って来た、白い部屋に、白い制服を着た女性が入ってきて言った。この部屋は、どうしようもなく、白くて透明だ。体や脳内からあらゆる全て、抜け落ちた感覚が酷く不快で、まるで私とこの部屋同じ感じがして嫌だった。ほんの一瞬開花した才能を、物語を書くことで全て失ってしまったような喪失感。彼女は、点滴の残量などを調べると、無言の私に微笑みながら、優しく、手首に指を当て、左手首の時計と交互に針の進みを確認する。なぜだか、酷く長く感じる。そして納得したように、また笑顔を向けると、『もう、大丈夫そうですね。いま、先生呼んできますからね』と言って、部屋を後にした。


 ここは六人部屋のようだが、他に入院している患者はいないようで、並んだベッドには布団すら敷いていなかった。看護婦から聞いたのか、父親と母親も、部屋へ入って来た。こんな穀潰しの息子のために、なんとも甲斐甲斐しいことだ。いっそのこと見捨ててくれれば、これ以上迷惑をかけることもなく、私も惨めな思いをしないで済むというのに。愛か、義務か。それとも執着か。


 そのあと、医者の先生が言うには、ただの過労とのことだった。どうやら、私は数日執筆続け、倒れたらしい。何度か母親が部屋の外から声を掛けたらしいが彼女の死で悲しみ臥せっているのだろうと思い、そのまま放っておいたようだ。そして遂に三日が過ぎ、部屋から何も音がしなくなったので、これはおかしいと部屋に確認しに入ったところ、仰向けに泡を吹いて倒れている私を見つけたそうだ。恥ずかしい姿を晒してしまった。


 医者から、もう大丈夫だから、退院して良いと言われ、そのまま両親に付き添われタクシーで帰宅した。偶然なのか分からないが、彼女の死の際に病院へと行った時の運転手と同じだった。いや偶然以外では何も有り得ないだろう。彼女の死にあれだけ、動揺していたのに、彼のことはなぜか印象に残っていた。初めて会った彼女の兄と両親の顔はうる憶えなのに。制服に帽子。白い手袋。なんだかニヤけた顔。小太りの体。


 そうだ。思い出した。なぜこのどうにも胡散臭い男を覚えていたのか。あれは病院へと向かう車内で、彼の言った言葉が異様だったからに他ならなかったからだ。呆然と話す気も起きず窓の外を眺めている時に、彼は唐突に、バックミラーで私の顔を見ながら言ったのだ。『あと、数年といったところですか、お客さん。いい『札』あるんで、ちとお高いんですがね。お分けしますよ。何かあったらウチの会社に連絡入れて下さいよ」そう言って、彼は、自分の名前を名乗った。たしか、飯田、いや、飯塚だったか。呆然としていて、彼のした会話の前後は覚えていない。それどころでは無かったのだ。私は適当に首をふっただけで、返答代わりとしたと思うが定かではない。とにかくいまは両親と一緒のせいか、彼は何も話さず、黙々と運転し、自宅まで送ってくれた。


 父親の肩に掴まりながら、部屋へと辿り着き、母親が用意してくれた布団へと寝転がる。そして私は、自身の体の事よりもずっと気になり、そわそわと焦っていたものを確認しようと机の上に目を向ける。机の上は綺麗に整頓されていた。きっと母親が片づけたのだろう。そしてその上には綺麗に重ねられた原稿用紙が置いてあった。誰もいなくなった蒸し暑い部屋で、重い体をゆっくりと起こす。あれだけの思いをして書き上げたものが、しっかりとその場に存在していることに安堵した。傑作のはずなのだ。何を書いたのかすら、あまり覚えていない。しかしこれは私の魂の一部で、後世に残り得る小説だと確信している。私はやり遂げたのだ。彼女が生きているうちに書きたかった。申し訳なく思う。きっと彼女が私にこの作品を与えてくれたのだ。彼女の安らかな眠りを心から願う。


 少し横になり、だいぶ楽になってきた。身を起こし、机の上の原稿用紙の束を掴み取り、読み始める。さすがに推敲もしなければならない。激情のままに書き上げたのだ、物語に矛盾や不整合、誤字脱字、色々と手直しが必要だろう。ペラペラと自分の筆跡と多少異なる文字を、一枚づつ順を追って丁寧に読んでゆく。散らばっていた原稿を母親が拾い集めたせいか、順番が違うところも多少あったが、それ以外は特に問題なかった。そう問題ない。問題ないのが問題なのだ。有り得ない。矛盾や不整合は愚か、誤字脱字、構成、文章、どれをとっても、何回読み直しても、何一つ問題がないのだ。これで、完璧で、完成しているのだ。

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