第5話 死と血と魂

 知らない中年男性の震えた声。どうも様子がおかしい。


「あぁ、済まない。私は長月というもので、霧江の兄、です」

「霧江、ちゃんのお兄さんですか? あぁ、えっと、例の工場での仕事のお話でしょうか?」


 まさか向こうから電話してくるとは思わず、なんと答えようと思案を巡らす。しかし面倒なことになった。直接だと非常に断り辛い。


「あぁ、違う、違うんだ。その、落ち着いて、落ち着いて聞いて欲しい」

「え、あぁ、はい、なんでしょう?」

「霧江が死んだ。昨晩の事だ」


 一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。


「え?」

「駅の階段から、足を滑らせて落ちたんだ。そして首の骨を折って、しまって」


 霧江の兄を名乗る男の声に嗚咽が混じり始める。最後の方が聞き取り辛く、よくわからなかった。


「いや、そんな、まさか」

「昨晩から何度も電話していたんだが、誰も出なくて」

「誰も出なかった……」


 両親は一体どこへ。自分は昨日の昼から、翌日の朝まで眠っていたのか。振り向いて壁に掛かっている時計を確認すると、午前九時を少し回ったところだった。自分も電話のベルが鳴り響く中、まったく目覚められない位、熟睡してしまっていたのか。


「悪いが、病院に来てくれるか? きっと妹も君に一番合いたいと思っていると、思うから」

「わ、分かり、ました。すぐ。伺います」


 足が震え、声も震える。次第に頭で理解した彼女の死が、感情でも理解し始める。彼の兄から、病院を聞くと受話器を置いた。そしてそのまま、その場にへたり込む。体と感情の整合性がちぐはぐになり、動けない。次第に感情が、理解した脳と体に追いつき、激しい悲しみに支配された。


 とてつもない喪失感。涙が溢れ、嗚咽する。失ってしまったものの大きさを実感する。胸が抉られる程に痛い。いや、きっと鋭く鋭利な悲しみに魂が本当に抉られているのだ。堪らなく痛くて立ち上がれない。脳裏には彼女の笑顔ばかりが浮かんでくる。この世は何て理不尽で不条理なのだろう。


 彼女は死ぬべき人では無かったはずなのに。いつも人を思いやることが出来る優しい人だったのに。しかしほんの少し。本当にほんの少しだけ、心の奥底に眠っていた欠片が、ゆっくりと心を引っ掻きながら浮かび上がってくるのを感じる。決して人には言ってはいけない欠片。本当に小さい小さい感情の欠片。解放されたと言う安心感。純粋な真実の欠片。邪魔するものが消えてくれた。私は彼女の死を望んでいたのかもしれない。胸が締め付けられ動悸が激しい。


 次第に体が力を取り戻し、柱に掴まりながら立ち上がる。まだ少し、ふらつくが問題ない。そしてタクシー会社に電話をして、一台至急、自宅に回してもらう。到着する間に身支度を整え、顔を洗う。泣きはらした顔はむくんでどうしようもなかったが、とりあえず涙の流れた後は洗い流した。鏡に映る自分の顔は、目が充血し、落ちくぼみ、頬は痩せこけていた。自分はこんな姿だったのかと不思議な感覚に陥る。みすぼらしく弱弱しい。


 タクシーが到着したらしく、外でクラクションが鳴った。財布だけズボンの後ろポケットに捩じ込み、急いでタクシーに乗り込むと、行先を告げる。タクシーは市内で誰でも知っている総合病院が行き先と分かると、すぐに走り出した。きっと病院までなら運賃は三千円もあれば釣りがくるだろう。


 気持ちは逸り、はやく病院に付かなければという思いとは、裏腹に、ずっと着かないで欲しいとも思えた。彼女の死を現実にしたくなかったのだ。彼女の死に顔を見てしまったら、それは現実として受け入れなければならない。しかし、このままずっと合わなければ、もしかしたら彼女はどこか知らない場所で生きているかも知れないと思うこともできる。完全なる死が確定しないのだ。複雑な気持ちを抑え込もうと握りしめる両手が痛む。


 ぶんぶんと頭を振り、考えを改める。病院では彼女の兄が待っているのだ。それを無視するわけにもいかない。それに彼女に対しての責任もある。彼女が安息の地へ向かい、永遠の眠りにつくのを見送ってあげなければならない。これは十年近くも一番近くにいた私の、彼女の愛をたっぷりと注がれた私の、義務であり、責任だ。苦しくても、悲しくても辛くても行わなければならない儀式だ。


 奇妙なタクシーの運転手に支払いをし、正面玄関から病院へと入る。カウンターの看護婦に病室を聞く。手慣れた看護婦は、病室まで案内してくれた。病室には、彼女の兄と思われる中年の男と、両親と思われる老夫婦が静かにベッドの脇に座っていた。見るからに憔悴しきっている。彼女の兄が、私に気付くと、ベッドの側へと誘い、横たわるものの顔に掛けられた白い布を外した。


 まるで眠っているかのような穏やかな表情をした彼女。どうやら苦しまずに済んだようだ。肌は血の気が無く白くなっていたが、そのまま目を開けて『おはよう』と言ってもおかしくないように見えた。彼女の兄は、十時十四分に亡くなったと私に告げた。私はその時間、いったい何をしていたのだろう。記憶があいまいだ。もう既に眠ってしまっていたのだろうか。


 その後、通夜と葬式が流れる様に終わり、久しぶりに自分の部屋へと戻って来た。葬式では、自分の周りで、多くの人が入り乱れ、慌ただしく動き回っていたが、よく覚えていない。何かを言われ、その場に即した言葉を選び、無難に答えた。何も考えず、ただ茫然として、やり過ごした。棺に収まる彼女の姿。菊の花。線香の香り。黒い服を纏った人々。体がやけに重く、心も奥底に沈み込んでいるのを実感した。空虚な心。だが、今までにない心の安寧。静けさ。あれほど激情のまま荒れ狂っていた心が、鏡面のような波一つない水面のようにだ。心が死んでしまったのだろうか。


 そして、いつも通り机に向かい、原稿用紙を眺める。そして愛用の万年筆を折ってしまったため、古い万年筆を引っ張り出し、新しいインクを入れる。どうもどこか調子が悪いようで、ぽたぽたと黒いインクが原稿用紙へと落ちる。真っ黒い血のようだ。真っ黒い私の血。原稿用紙に、魂を刻み込むための私の血。そしてインクで汚れた原稿用紙にも関わらず、気にせずに一文字目を刻み込む。あれほど、書けなかった文字が、文章が、物語が、容易く紡がれてゆく。いつの間にか万年筆も、不具合なく、インクを吐き出している。十文字、百文字、十行、百行。十枚、二十枚。原稿用紙は、まさに紙として、インクを大量に吸い込み続ける。私の魂が、インクという血に宿り、原稿用に刻まれてゆく感覚。原稿用紙に魂を削り取られゆくようだ。


 万年筆のカリカリと言う音が、やけに耳に心地よい。まるで、荘厳なクラシックを聴いているように、重厚な響きが、全身を揺さぶる。その古典的で深みのある音階が、物語と共に進行してゆく。時には優しく、時には激しく。前奏という『起』から、静かだが、不穏な『承』へと繋がれてゆく。脳内がフル回転し、いままで培ってきた技法で、溢れ出る奇抜で、斬新なアイディアを原稿用紙へと、淀みなく、つらつらと落とし込んでゆく。生まれて初めての感覚に酔いしれる。一文字ごとに、彼女を失ったことへの悲しみが、失われてゆくのが分かる。癒されるのではなく、原稿用紙と言う紙に、悲しみを少しづつ、少しづつ転写しているのだ。これは正しいことだ。なぜなら私は作家なのだから。

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