第4話 慟哭

 そして数日が過ぎて、宅配業者が原稿用紙の入ったダンボールを持ってきた。やはりぎっしりと紙の詰まったダンボールは、重いらしく、体格の良い若い二人の作業員が、腰に気を付けながら、裏の倉庫まで運んでくれた。少し、片付けたかいあって、なんとか五箱とも倉庫内に収まった。もっとボロボロのくたびれたダンボールを想像していたが、想像以上に綺麗で安心した。やはり健二くんが言っていた通り、中身の原稿用紙は問題なさそうだ。


 当面は、まだ部屋に原稿用紙が残っているから、それが無くなり次第取りに来ようと倉庫の扉に鍵を掛けて、部屋へと戻った。


 机の上の原稿用紙には、必死にひり出したアイディアを無理くり童話に仕立てた、可もなく不可もない、退屈な童話の下書き。我ながら、どうしようもない。きっと子供達がこの童話を読んでもクスリともしないだろう。魅力のない主人公に退屈な物語。破り捨てたい衝動を何度堪えたことか。破り捨てて、義理の弟である健二君にこれ以上迷惑をかけるのは、私自身が耐え切れない。


 そして清書を終え、茶封筒へと入れる。なんとか駄作ではあったが、書き上げることが出来た。そして原稿用紙が切れたことに気付き、倉庫へと向かう。ダンボール箱を開け、中に入っている原稿用紙を数束取出し、部屋へと戻った。貰った原稿用紙は、有名メーカーのもので、私がよく買うものと同じであった。原稿用紙を一枚取出し、机の上に広げる。そんな原稿用紙をいつも通り、険しい表情で睨みつける。


 万年筆を握りしめ、集中し、原稿用紙を睨みつけていると、耳元であの不快なプーンという甲高い音が聞こえた。身を引き、その姿を確認するが、見当たらない。全く汚らわしい生物だ。そしてふと、時計を確認すると机に向かってから数時間が経過し、針は十時十分を差していた。


 この数時間考えていたのは、童話の新しいアイディアではなく、この数日、頭の中に繰り返されている、彼女の言葉や両親のしっかりしなさい、将来のこと考えなさいなどという言葉だった。若い頃はさほど気にならなかった言葉だったが、最近では酷く苦悩させられる。そして義理の弟から聞かされた小山田の噂。脳内が猛毒に犯されているように、ぐるぐると声が響き渡り、呼応するように心が、魂が締め付けられてゆくのが分かる。絶望や屈辱、恥辱が渦巻き、怒りが心を満たしてゆく。その怒りで燃えた視線は、原稿用紙を焼き払ってしまうのではないかと思えた。


 ここまで苦しいのは、作家を目指すからなのだろうか。彼女や両親の言う通りに工場で心を殺して、何も考えず、ロボットのように生きたほうが、まだ幸せなのではないかと思えてくる。彼女をいつまでも待たせておくことは出来ない。近日中には返事をして、魂を殺し働くのか、それとも、このまま売れない作家として、他者に馬鹿にされ、見下されながら灼熱の地獄を巡り続けるのかを決めなければならない。たまらなく苦しい。


 だが、他者に救いを求めることは、恥だし、悪だ。そんな弱者に成り下がるくらいなら死を選ぶ。私にとって、完全なる邪悪というものは、自分が弱者であることを自ら認め、他者の憐れみに縋ることだ。作家である私は、孤高でなくてはならないのだ。


 激しい憎悪が渦巻き、自分に対する嫌悪感が膨れ上がる。原稿用紙にいつも通り、汗がぽたぽたと滴り落ちる。才能が欲しい。傑作を想像できる才能が。



「どんな対価を支払おうが、何を失っても構わない。傑作を書けるだけの、才能が、閃きが、どうしても、どうしても、欲しい」



 傷つき、血を流している魂から吐き出された慟哭。原稿用紙を睨みながら、涙を流し、願った。読んだ人すべてが絶賛する強烈な傑作を掛けるのなら、自分の命さえ、差し出す。握った万年筆を原稿用紙にギュッと強く押しつける。私に才能を。


 強い力に耐え切れず万年筆が、ミシミシと音を立て、遂に乾いた音が鳴り、中央でぽっきりと折れた。砕け散った破片が、指に深々と刺さり、原稿用紙に真っ赤な血液が滴り、広がってゆく。痛みよりも、その血の美しい赤に目が奪われる。そして真っ赤だった視界が、突如、闇に飲みこまれ、私は意識を失った。


 そして、心身ともに疲労の限界だったのか、気が付いたら机に突っ伏して眠ってしまっていた。どのくらい眠りこけていたのだろうか。ジリジリジリと階下でベルが鳴り響いている。両親はいないようで誰も電話にでる気配がない。ぐっすりと眠れたせいか、心が妙に軽くなった気がする。手の傷はすっかり渇き出血も止まっていた。折れた万年筆と血で汚れた原稿用紙は後で片付けようと、ゆっくりと立ち上がり、階下へと向かう。けたたましく鳴り響く、電話の受話器を持ち上げ、耳に当てる。


「はい、もしもし。工藤ですが」

「工藤、くんですか?」

「そうですが、あなたは?」


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