第3話 彼女の願い
そんな言葉で止まるはずもなく、抵抗する彼女を押し倒し、服を脱がしてゆく。彼女も諦めたようで、抵抗せずに、受け入れ始める。そのまま畳の上での乱暴な情事に身を委ね、煮えたぎる怒りと共に欲望を全て彼女にぶつけた。
「もう、ダメって言ったのに」
散らばった服を拾い、霧江は不服そうに文句を言った。しかしその表情は、怒りよりも心配そうな色合いが強く出ていた。見透かされているのか。
「何かあった? 酷い顔色よ」
「いや、ごめん。どうしても君を抱きたくて、我慢できなかったんだ」
心配されている。彼女は心根の優しい子だ。心配しないはずがない。その心配が、私を恥辱の沼へと押し沈めてゆく。ゆっくりと。ゆっくりと。どうか心配しないで欲しい。これ以上、私を辱めないでくれ。憐れみは私を腐らせてゆく。きっと彼女にはそれが理解できないだろう。堪らなく憎い。
それから、何事も無かったように二人で、両親の用意した夕飯を食べるために階下のリビングへと向かった。食卓には、母が揚げたであろうコロッケの山盛りと、みそ汁、ほうれん草のおひたし、冷奴などが、所狭しと並べられ、両親と私、そして霧江の四人で食事を始めた。
「このほうれん草は、高田さんとこのおばあちゃんから頂いたの。新鮮でとても美味しいから、いっぱい食べてね霧江ちゃん」
「はい、頂きます。ほんと、瑞々しくって美味しいです」
などと言っているが、彼女がほうれん草が苦手なのは、大学時代の時から知っている。だが、優しい彼女は、母の勧めるほうれん草を断ることも出来ず、美味しくないなどとは、口が裂けても言えないだろう。これで彼女は、母の前では、ほうれん草が好きだと死ぬまで言い続けなければならない。方便ではあるが、なかなかにリスクが高い。
しかし、食事と彼女との情事のせいか、心に激しく燃え上がっていた怒りや妬みの炎も多少は鎮火されたようで、食事を終え、また二人で自室へと戻り、たどたどしかったが、なんとか会話を始めることが出来た。
「何があったの? ここ数日だいぶ辛そうだよ?」
「あぁ、うん、いま依頼されている童話のアイディアが出なくてね。ちょっと苛付いていたんだ。それにこの数日の熱帯夜で寝不足でね」
「そうね、この数日特に暑いよね。蚊帳の中でやっと寝付けても、どこかからか蚊が入ってきて、耳元でプーンって音がして飛び起きたりで、私も寝不足ぎみだわ」
本当に蚊という生物は、不快感しか感じない。彼女の言ったように、耳元で飛んだ時の羽ばたきの不快な音。そしていつの間にか体を刺し、痒みを発生させる毒を注入する。人が刺されたことに気付かない様にするための麻酔のような分泌物を注入しているらしく、その成分が時間経過で痒みを引き起こすと聞いたことがある。これはもう人にとって毒物を注入する害虫と言っても過言ではないだろう。
ただでさえ、眠れないのに、更に蚊のせいで睡眠が妨害される。マラリアなどの伝染病の媒介もする極めて危険な生物だ。いっそ絶滅させたほうがいい害虫だ。しかも血を盗むなど、許されない。血は魂を紙に刻み込むための大切なインクだ。一滴たりとも無駄には出来ない。
「叩き潰されても、文句言えないよね」
「そうね。痒いしね」
そう言って、彼女は笑った。私は笑ったのだろうか。良く分からない。
彼女が泊まってゆくと言うので、部屋に布団を敷き、寝転んだ。暑苦しい熱帯夜で風呂に入ったせいか、汗が引かずにジンワリと全身が湿っている。嫌な感じだ。蚊帳の中なので、そうそう蚊の侵入は無いと思う。しかし、感じる。汗の匂いに惹かれて、やつらが、蚊帳の外から私の血を狙っていることに。虫唾が走るとはこういう感じの時の表現だったろうか。忌々しい。
「あのさ、兄さんがプラスチックを形成する工場で働いてるのね。もし、あなたさえ良ければ、来ないかって兄さんに言われたの。人手不足なんだって。ううん、勿論、あなたが童話作家になりたいって頑張っているのは知ってる。私も応援したい。だからね、週に三日位働いて、残りの日は作家としてやっていくのはどうかな? 童話を書いて食べていけるまでの、繋ぎとしてね。そうすれば、きっと父さんもあなたとの結婚を許してくれると思うの。どうかな?」
私はしばし考え込む。勿論彼女のことは愛している。大切な人だし、結婚もしたい。長く付き合っているのだ、今までもこんな話は何度もしている。しかし引き延ばすのもそろそろ限界だろうか。彼女と、生まれた子供との生活。それは幸せの形なのだろう。でも、しかし、この心の中に生まれた真っ黒い感情を拭い去ることは出来ないだろう。論理的に矛盾なく、理路整然と私達の物語を進めると、彼女の言う生活では、私にとっての幸せが訪れないことが分かる。この黒い感情を消し去ることは出来ないと分かる。どうしようもなく、分かってしまうのだ。私は作家なのだから。
だが、才能の無い私には、物語をどの様に創作すれば 幸せになれるのかアイディアが出てこないのだ。やはり才能が無ければ、幸せになることすらできない。しかし、けど、それでも、足掻きたいのだ。こんなにも単純で簡単なことが、彼女はおろか、両親すら理解できないのだ。それ故に、働けだの、結婚しろだのと詰め寄ってくるのだ。そんなに息子に幸せになって欲しくないのだろうか。不幸になることを強要する人達に、私はもううんざりしているのだ。
「うん、考えてみるよ」
「うん、お願い。私、待っているから」
私が、作家で成功するのを待っているのではなく、失敗して、心が死ぬのを待っているのだろう。ただ、何も考えず、黙々と工場で働き、決まった給料を死ぬまで彼女と子供のために持ち帰る人間になるのを。必死に吐き気を抑え、おやすみと言うと彼女もおやすみと言って目を閉じた。
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