第2話 原稿用紙
「その通りです。偉大な作家であったことは間違いありません。そのことを否定する人はいないでしょうね」
「あぁ、それで? 原稿用紙がどうしたんだい?」
「それがですね。その河野原先生には、ちょっと変わったところがありまして、担当が言うには、倉庫に大量の原稿用紙がビニールシートで厳重にくるまれて仕舞ってあったらしいんですよ。十年以上手付かずだったようで、かなりシートに埃が積もっていたらしいのですが、中身を確認したところ十分に使えそうだということで、捨てるのも勿体ないってことになりまして、遺族に頼まれて、その引き取り先を探していたんですよ」
「あぁ、それで、原稿用紙を買う金にも苦労してそうな私に話を持ってきたってことかい?」
「いえいえ、そんなつもりは」
「あはは、冗談だよ。そこまで金には困ってはいないさ」
「脅かさないでくださいよ。それとですね。義理兄さんなら、気にしないと思うんですが、義理兄さんより先に河野原先生と親しかった友人や知人の作家に、この話を持って行ったんです。しかし、どうも引き取るのを嫌がりまして」
「うん? それはなぜだい?」
「理由を聞いても、ただ、気味が悪いと言われるだけで、よくわからないんですよ。やはり知人とはいえ、死んだ知り合いの使っていた原稿用紙を使うのは嫌なのかもしれませんね」
「そういうものなのかも知れないね。作家と言うのは、ペンで己が魂を原稿用紙に刻み込むようなものだからね。言うなれば魂の器ってやつさ。故人の何かしらの意志が宿っていると言われても私は信じるね」
「なるほど、最近はワープロに切り替える作家さんが増えてきましたけど、未だに万年筆をお使いになるのはそういった訳からですか?」
「あんなもので、私の魂を原稿用紙に刻み込めるとは思えないからね。やはり傑作と言うのは万年筆をぎゅっと強く握り締めて、血の代わりのインクと、魂の器たる原稿用紙に己の魂を刻みつけることによって、生み出されるものと、私は思うね。それが例え、童話であったとしてもね」
「童話を読んだ子供達が、それを聞いたら怖がりそうですね」
「子供には知らなくていいことが多いのさ。では、他に欲しいという人が現れる前に、その原稿用紙を
「枚数は分かりませんが、中くらいのダンボール箱五箱分ですね」
「それはまた、すごく多いね。助かるよ。書き損じも多くてすぐに消費してしまうから。五箱か。裏の倉庫に入り切ればいいのだが。少し片して場所を開けておくか」
「では、今日、連絡して置きますので、来週中には届くと思います」
「わかった」
「それと
「知り合いではあるけど、友人かと聞かれると困ってしまうな。大学時代の文学部で一緒だったんだ。彼がどうかしたのかい?」
「ええ、小山田先生がミステリー小説をお書きになっているのはご存じですよね?」
「勿論、彼は大学時代からミステリー一辺倒だったからね。童話や児童文学に傾倒している私が言えたことじゃないがね」
「小山田先生の最新作が、面白いと噂になっていましてね。きっとどこかの賞で大賞を獲るのではと言われてましてね。お知り合いと聞いていたので、ご報告しておこうかと思いまして」
ギリギリと歯を食いしばる。あの、いけ好かない男の書いた小説が、大賞だと? 尊大で傲慢が服を着て歩いているような、あの男が書いた小説が面白い訳がないだろう。一体どんな感性を持って、小説を読んでいるのか。私が未来ある子供達に、夢や希望を持って貰いたいと願いながら、必死に書き上げている童話よりも優れているはずがない。いや、優れていてはいけないのだ。堪らなく胸が苦しい。
「そ、そうなんだね。彼とは、そんなに親しくは無かったけど、彼の作品は当時から周りの人に認められて評価されていたからね。いつかはこうなるんじゃないかって思っていたよ」
人間の凶暴性は、どこまで理性で抑えておけるものなのか。甚だ疑問だ。この胸の中のマグマのような感情を私はどうすれば良いのだろう。
「ミステリーは流行の分野ですしね。ここで大賞を取れば、きっと売れっ子作家の仲間入りですよ。義理兄さんもどうです? たまにはミステリーに挑戦してみるって言うのは?」
「いやいや、勘弁して欲しいものだね。私にミステリー作家は無理だよ。書きたいと思ったことさえないんだから。読んだ冊数だって微々たるものさ。僕は子供に夢を与える童話が好きなんだよ」
「そうですか。もし、書く気になって、書き上げたら言ってください。ミステリー小説の担当へ回しますから」
「ないと思うけど、もし、そうなった時は宜しく頼むよ」
「はい。では、原稿は、後日取りに伺います。行く前にまた電話しますね」
「その時は、妹も連れてくるといい。泊まっていきなさい。良い日本酒が手に入ったので御馳走するよ」
「それは、楽しみにしておきます。祥子もきっと喜びますね」
「あぁ、あいつも日本酒に目が無いからな。但し、つまみは頼むよ」
「わかりました。何か珍しいものでも用意して伺います」
「あぁ、では、待っているよ。お疲れ様」
「はい、では、お疲れ様です」
全身の震えを抑えながら、ゆっくりと受話器を下す。思い切り叩きつける様にガチャンとおきたい気持ちを必死で抑える。この世には我慢ならないことが多すぎる。耳障りな蝉の鳴き声も、この蒸し暑い夏も、傲慢で尊大な人間も、他者の幸福を妬み、怒りに打ち震える自分自身も、我慢ならない。
二階の自室へと戻り、机に向かって座る。外に放り投げた原稿用紙の代わりを用意し、また、ぎゅっと睨みつける。いつも通り。いつも通り。いつも通り。穴が開くほど、睨みつける。アイディアを捻りだそうとか、なんでもいいから書き殴ろうとか、一切考えず、ただただ、睨みつける。額の汗が流れ、原稿用紙にポタポタと落ちる。それでも微動だにせず、いつも通り、睨み続ける。きっと、そのうち魂の器の中に自分が取り込まれて消えてしまえるかもしれない。苦しい。苦しい。
そして、背後から掛かる声で、既に日も落ち、夜になっていることに気付いた。背後から掛けられた声の主は、大学時代から付き合っている彼女の長月霧江だった。
「ごめんね、集中しているところに」
「いや、いいんだ。構わない」
突然途切れた集中力のせいか少し眩暈がした。そして、ゆっくりと立ち上がり、彼女を乱暴に引き寄せ、強く抱きしめる。拒みはしなかったが、抱きしめ返してはくれなかった。
「ちょっと、どうしたの?」
彼女の腰に手を回して、欲望のままに唇を貪る。鼻孔を擽る彼女の首筋の香り、密着する乳房の柔らかさに、己が抑え切れなくなってくる。この暑苦しい夏の夕方でも、性欲は衰え知らずだ。嫌になる。
「ねぇ、ダメ。ここでは。下に、お父さんとお母さんがいるでしょ、ダメよ」
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