死紙

白桃狼(ばいたおらん)

第1話 童話作家


 蒸し暑さでじっとりした汗が全身を湿らせる。湿度が異常な程に高く、不快な四畳半。五月蠅く耳障りな蝉の声。忌々しい蚊。灼熱の夏の日々。苛々する。


 私は、座布団の上に胡坐をかき、机の上のまっさらな原稿用紙を睨みつけている。もう既に昼飯も済ませ、午後二時回っているというのに、本当に一文字も書けていないのだ。全く、世の中不公平にできている。


 世の大作家様なら、その生まれ持った才能から次々に斬新奇抜なアイディアを脳内に生み出し、そして、それを華麗な技巧を用いて、美しい文章へと練り上げ綴り、素晴らしい傑作を書き上げるのだろう。自分にその才能の欠片でもあれば、喰うに困らない程度の小銭を稼ぐことが出来ると言うのに。本当に嫌になる。


 半袖シャツにブリーフという半裸の状態なのに、全身から汗が噴き出し止まらない。昨夜も熱帯夜で碌に眠ることも出来なかった。ここ数日、ほとんど眠っていないせいか非常に体が怠い。三十を過ぎて数年。もう無理が効かない体になってしまった。若い頃から、大作家を目指して、机に噛り付いていたので仕方がないと言えば仕方がない。体力の無さは私自身の折り紙付きだ。


 巷では、エアコンなるものが普及し始めているらしいが、庶民で、貧乏な我が家に来るのは、数十年先の事だろう。扇風機は熱風しか吹かない上に、机の原稿用紙を風で巻き上げ、吹き飛ばすので、最近では全くの役立たずだ。バラして鉄屑屋にでも放り込みたい。いや、あれはほとんどプラスチックだから、鉄屑屋ではダメか。どうすればいいと言うのだ。全く苛々する。


 そして、遂に自分の内にある凶暴性が突如として、目覚め、机の上にあった何も書いていない原稿用紙を乱暴に鷲掴みにすると、くしゃくしゃに丸めて窓から、外へと力任せに放り投げた。こんな無駄なことに労力を使ってしまう程、才能が無く、無力な自分に本当に腹が立つ。どうしようもなく苛々するのは、どうしようもなく怒りが込み上げてくるのは、暑さのせいなんかでは無く、不甲斐ない自分自身のせいだ。もうどうしようもない自分にどうしようもなく腹が立つ。


 怒りに震えながら、窓の外を眺めていると、階下からジリジリジリと電話のベルが鳴るのが聞こえた。そして、すぐに母親の声が、私宛の電話だと階下から告げる。友人もいない私に電話してくるのは、担当の編集者であることは、すぐに察しがつく。きっといま頼まれている短編の進捗を確認するための電話だろう。母親には何も答えずに、脳内に湧き出て、こびり付いている絶望を、頭をぶんぶんと振って払い、そして何事も無かったように、階段を下りて、ポーカーフェイスで母親から受話器を受け取る。母親は、小声で予想通りの相手の名前を囁くと、そのまま台所へと戻っていった。


「もしもし」

「もしもし、義理兄にいさんですか?」

「あぁ、健二君。どうしたんだい?」


 当然、進捗のことだと分かっていたが、全く進んでいないことを悟らせないために余裕を持って対応する。才能の無い私にとって、締め切りを引き延ばすため、この手の演技はお手の物だ。いよいよ切羽詰まったら、数日失踪してしまうのも良いかも知れない。ちょっと作家らしくて憧れてしまう。


 街にある茜崎出版社の健二君は、童話作家の私を担当している編集者で、妹の夫でもある。非常に良い男で、仕事のない私に時折、ちょっとした短編や、童話などを依頼してくれるのだ。かつて一緒に飲み、潰れてしまった私を、タクシーで実家に送り届けてくれた際に、妹と知り合い、お互い気があったらしく、一年の交際を経て、遂に四年前に入籍し、義理の弟になったのだ。


「いまお願いしている童話なんですが、進捗はどうですか?」

「あぁ、問題ないよ。もうほとんど下書きは出来ているんだ。後は、推敲して、清書するだけだね」


 当然全くの嘘で、一文字も書けていない上に、アイディアの欠片すらない。しかし、この仕事を投げ出すわけにはいかない。貴重な収入源をふいには出来ない。嘘を付くのも、付かれるのも嫌いだが、致し方がない時は方便だ。必要であれば、嫌いでも受け入れ、利用する。それが、大人であり、プロというものだ。


「それは、助かります」

「まぁ、来週末までには入稿できると思うよ」

「宜しくお願いします」


 彼には自分の状況を悟らせたくない。自分の弱い部分を彼にも妹にも見せたくないのだ。この絶望に満ち満ちている、ドロドロとした感情は、彼らには関係ないし、拘わらせたくもない。もうこれ以上は迷惑もかけたくないし、哀れまれるのもごめんだ。心配されることも、恥辱だし、屈辱なのだ。他人から見える私は、どんなに才能の無い出来損ないだったとしても、せめて孤高でありたいのだ。


「あぁ、それで、義理兄さん。また別の話なんですがね。原稿用紙って要りますか?」

「これは、また突然だね。どういうことだい?」

「他部署の同僚が担当していた作家さんが亡くなりましてね」

「それはお気の毒に。どなただい? 亡くなったのは」

「ここ連日、テレビで大騒ぎですよ。見られてませんか?」

「ここ数日、仕事で忙しくてね」


 アイディアを絞り出そうと、うんうんと唸っていただけだが、作家はそれが仕事であると言っても問題ないだろう。


 それにしてもテレビで大騒ぎと言うからには、余程の大作家が死んだのだろう。知り合いや、好きな作家先生でなければ良いのだが。


「そうですか。亡くなったのは、河野原先生です」

「あの、ミステリー作家の河野原次郎先生かい?」

「そうです、河野原先生のミステリー小説はヒット数こそ少なかったものの、金字塔と言っても過言ではない作品がいくつかありますからね」

「私もいくつか読ませてもらっているよ。河野原先生とは畑違いだし、格も違うからお会いしたことは無いんだけどね。しかし作品によって、なんというか、こう……」

「作品ごとに面白さの差が激しい」

「そう、そうなんだよね。故人に対してあまり言いたくはないんだけど、面白いものは飛び切りだが、その正反対の作品も多く見受けられる印象だったね」


 ミステリーをあまり好まない私が、読んでも面白く、嵌った作品もあれば、全く面白くなく、小説を購入した代金を返せとまで思った作品もあったのを思い起こす。


「えぇ、調子のよい時は、賞を取りまくったかと思えば、かなり批評家たちからこき下ろされる作品を発表したりしたんですよ。担当していた同僚も調子のよい時と悪い時の差が激しすぎるってよく嘆いてましたよ。特に晩年は酷かったらしくて」

「編集者としては、そうだろうね。しかし、いつでも最高の作品を書ける作家もいないし、後世に残ると言われる傑作もある。多少売れなかった作品があったとしても、偉大な作家だったと私は思うね」


 自分で言っていて、鳥肌が立つ。何が偉大なのか。ただ単に生まれ持った才能と運が良かっただけのことだ。同じ才能があったなら、きっと彼を超えることも容易だったはずだ。妬ましい。


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