第9話 ブックカバー

 1週間程喫茶店に行かなかった。何となく気まずかった。そんなこと考えているのは僕だけだ。分かってはいるけど、もし店にエリさんがいたら、どんな顔をしたらいいのか分からなかった。久しぶりに訪れたその店にエリさんの姿はなく、無駄に緊張していた自分に心底呆れた。


 僕はただの客だ。エリさんへの想いはエリさんにもマスターにも関係ない。勝手に一人で気まずさや気恥かしさを感じている自分が愚かなロマンチストに思えて来た。「お、久しぶりだな。」

「すみません。ちょっと忙しかった。」カウンターに座るといつものコーヒーが出てくる。その日から、僕はまた店に足を運ぶようになった。マスターだけでなく、隣り合わせた他のお客さんとも話をするようにした。エリさんが僕にそうしてくれるように。そしてそれはごく普通のことなんだと自分に言い聞かせる。僕は特別じゃない。ともすればめでたい勘違いをしそうになる自分にブレーキをかけるため、たくさんのお客さんと会話を共にした。


「裕太、よくしゃべるようになったな。」マスターが驚く。

「人見知りだから。マスターのおかげでやっと慣れて来た。」そんなお愛想も言える。

 

 エリさんが入ってきた。満席のカウンターから進んで席を立つ。

「ごちそうさま。」店を出ると、エリさんが僕を追って出て来た。

「裕太君。」手には紙袋。中にはこの前の折りたたみ傘。

「どうもありがとう。なかなか返せなくてごめんなさい。すごく助かった。」

「あ、捨てて下さってもよかったんですよ。わざわざありがとうございます。」

 出来るだけ普通を装い、紙袋を受け取って帰りの電車で中を覗く。お前はエリさんと手を繋いだのか。折りたたみ傘の持ち手に嫉妬する。傘とは別に平たい袋が入っていた。開けてみると中身は帆布で出来たモスグリーンのブックカバーとメッセージカード。


「傘ありがとう。裕太君が『羊をめぐる冒険』のハードカバーを持っているといいなと思って選びました。」

エリさん、もちろん村上春樹は全部ハードカバーで持っています。小さくてきれいな字。僕だけのために書かれた文字。ただの傘のお礼。他の人にもするだろう。どんな言葉を頭の中で並べても、心は納得しなかった。ブックカバーをつけた「羊をめぐる冒険」は今までよりもさらに特別な本になった。夜行性のイワシが電気を消せと鳴いても、その日僕は読み続けた。偶然同じ電車に乗り合わせただけの人が知人になった、このブックカバーはそれを証明してくれている気がした。

 

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