第8話 夕立
「マスター、ごちそうさま。」会計を済ませて、外に出ると土砂降りだった。天気予報ではそんな事一言もいってなかったのに、叩きつけるような雨が降っている。そして、軒先に少し前に帰ったはずのエリさんが立っていた。店を出て来た僕に気付き、少し恥ずかしそうに
「傘持ってなくて。もう一度店に入るのもマスターに心配かけると思ってね。少し待ったら止むだろうし。」と言った。
エリさんの言葉が終わる前に鞄に手を突っ込み、取りだした折りたたみ傘を差し出していた。
「僕、すぐ近くなんです。よかったら使ってください。」小さな嘘をついて、彼女に傘を渡すと土砂降りの中駅に向かって全力で走った。後ろで何か声が聞こえたような気がしたけど、振り返る勇気もなかった。たった一度「裕太君」と呼ばれたことが嬉しくて、全身ずぶ濡れで電車に乗り込みあからさまに他の乗客に怪訝な顔をされている事にも気づかなかった。玄関を開けるとキジトラが出迎えている。
「イワシ、ただいま。」初めて自分の飼い猫に話しかけた。小さくニャーと鳴いたイワシは足元にすり寄ってくる。餌を食べた後、僕の話に付き合わされる事になって、いささか迷惑そうだった。エリさんのこと、マスターのこと。誰にも話した事のない本当の気持ちをイワシに打ち明ける。そんなことしても何の意味もないのだけど、エリさんに名前で呼ばれたこと、初めて言葉を交わしたことを聞いて欲しくて仕方なかった。イワシが飽きてソファに丸くなった時、自分のしていることの幼稚さに気付き、簡単なつまみを作って、少し強めのウイスキーを飲み、無理やり眠った。
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