第7話 会話

 いつものように、エリさんの後姿が見える席でコーヒーを飲む夕方。カウンターのお客さんが一人帰ると、マスターが手際よくカップを片付け、僕を呼んだ。ここに座れとエリさんの横の席を指さしている。程良くエアコンの効いた店内で、急に背中に汗が吹き出してきた。断るのも失礼だし、待ってましたという雰囲気を出すのは恥ずかしい。なんですか?という体を装って、ゆっくりノートパソコンを鞄にしまい、自分のカップを持って、コーヒーを飲み終えているエリさんの隣に座った。すごく長い時間が経ったように感じたけれど、その間一度もエリさんは振り向かなかった。あくまで、僕はマスターに呼ばれてこの席に移動してきただけなんだ。エリさんは関係ない。何度も自分に言い聞かせた。


「裕太、最近どうしてんの?」洗い物をしながらマスターは大雑把な質問をしてくる。

「猫がきたよ。」僕も適当に返事をする。

「猫?」メニューにないクッキーをいつものように、僕のコーヒーの脇に置いてくれた。

「なんでまた。」

「大家さんとこで生まれちゃったんだって。ペット禁止のはずなのに、頼み込まれてキジトラの女の子が来た。」

「へー、裕太にも嫁がきたか。彼女か?」と笑うマスターの言葉で、飲みかけたコーヒーを吹きそうになる。

「そんなんじゃないって。同じ家でお互い一人暮らししてるような感じ。」

「名前は?」

「名前なんてつけてない。鰯に名前がないのと同じ。」大好きな村上春樹の小説のワンシーンを引用して僕は言った。


「今日から、イワシでいいじゃない。すごい!小説と同じだ。」エリさんがいきなり話に割り込んできて、僕は少々面食らった。

「え?イワシは変ですよ。これから名前考えます。この小説ご存知なんですか?」

「うん。村上春樹の世界観大好きなんだ。裕太君料理はするの?」

なんで、エリさんが僕の名前知ってるんだ?マスターの顔を見たら目元が笑っていた。

「料理しますよ。自分のために作るのが好きで、いつの間にかいろいろ作れるようになってました。」

「ふーん。これでお人好しで大問題に巻き込まれていったら小説そのものだな。」

 確かに村上春樹の小説に出てくる男性主人公は料理の出来るお人好しの独り者が多い。でも、変なトラブルに巻き込まれるのはごめんだな。小説の中だから楽しいんであって、あんなことが実生活で起こってしまったら、僕みたいな線路がないと動けない人間は何一つ対処できそうにない。エリさんは、小さくクスっと笑って席を立った。


「ごちそうさま、また来るね。裕太君もまたね。」とカウンターに500円置いてすっかり暗くなった通りへと消えていった。

「な?言っただろ?村上春樹好き。ハルキストって言うらしいな。」

 マスターはエリさんと僕を引き合わせた事に満足しているみたいだ。僕はと言うと、突然の展開にその日はコーヒーの味が全く分からなかった。そんな日に限って、期間限定のお高いコーヒーを注文してしまっていた。今度、エリさんのいない日にもう一度ゆっくり飲みに来よう。


 これは想像だけど、マスターは僕のエリさんに対する気持ちに気付いていない気がする。お店のお客さん同士が仲良くなる事が嬉しい、それだけの思いで僕をエリさんの隣に座らせたんじゃないだろうか。そうであって欲しいと願うばかりだ。少なくとも僕の周りに電車に乗り合わせただけの人に何年も片思いをしている人はいない。笑われるべきマイノリティ。

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