第5話 エリさん

 それから僕は曜日を変え、時間を変え、週に1,2回のペースでその喫茶店に通った。彼女がいる時はテーブル席に、彼女が来ない時はカウンターに座った。マスターも顔を覚えてくれて、たくさん雑談をするようになった。話題豊富で多趣味な人。僕のマニアックな村上春樹論にも的を得た返しをしてくる。いつしか、マスターと話す事が楽しみになっていた。


 一度、入店する時に店を出る彼女とすれ違った。香水ではなく、シャンプーや洗剤の自然な香りを身にまとっている。一瞬目が合ったような気がしたその瞬間、彼女は小さく会釈をした。あわてて僕も頭を下げる。鼓動が大きくなり、マスターに聞こえてしまうのではないかと心配になった。なるべく自然を装い、さっきまで彼女が座っていたと思われるカウンター席の隣に座る。無意識に横並びに二人で座っているところを想像して頬が熱くなってしまう。高校生じゃないんだから、落ち着いてくれ。手際良くカップを片付けているマスターにあくまでもさりげなく、

「今、出て行かれた女性、良く見かけますね。」と声をかけてみた。


「あぁ、エリちゃんか。駅と自宅の途中にこの店があるみたいで、しょっちゅう寄ってくれるんだよ。」エリさん。名前を知るまでにどれだけの時間がかかったんだろう。ちゃん付けで呼べるマスターが羨ましかった。「いつも、お一人ですよね。」さりげなく、さりげなく。

「そういや、誰かと来たことないかもしれないな。今は一人暮らしらしいし。バイタリティのある人で、どこでも一人で行くらしいぞ。誰かいないとどこへも行けない女々しい女は嫌なんだと。」と笑う。今はってことは以前は誰かと暮らしていたんだろうか。

「この間も、旅行に行って来たって北海道土産を持ってきてくれた。一人でぐるっと巡ってきたみたい。写真見せてもらったけど、すごくきれいだった。あ、裕太も写真やるんだっけ?」

「僕は、野鳥が撮りたいだけで全然上手くならないんですよ。」

「そうかぁ。話し合うかも知れないなぁ。『ノルウェイの森』が売れても『1Q84』が売れても、『羊をめぐる冒険』の世界観が大好きだって、村上春樹を熱く語ってたし。」

「そうなんですか?」あくまでも何となく聞いた体を装いながら、写真と村上春樹、僕と彼女の間に二つも共通項があることに喜びを隠せなかった。

「今、そこですれ違ったんですけど、会釈されたんですよ。」

「そりゃ、こんだけ通ってくれてたら、話した事なくても顔ぐらい覚えるだろ。」何でもない事のようにマスターは言った。そう、何でもない事なんだと僕は心に言い聞かせる。そりゃそうだ、僕が特別なわけじゃない。何回もこの店に通って、僕だって話した事のないお客さんの顔を何人も知っている。分かっていても、帰宅したシンプルな部屋は、いつもと同じなのにワントーン明るく見えた。

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