やるしかない!

 景子アナがどんどん近付いてくる。薄いベニヤ板1枚向こうには、数千人の観客がいる。言い換えれば、ここは観客席からは完全な死角になっている。誰にも見られていないという安心感が僕を操っているに違いない。


 ゆっくりとした景子アナの前傾には催眠効果があるのか、僕は顔の向きを整えて動きを合わせる。そっと目を閉じる。全神経が今までに経験のない精度ではたらく。と、背中に誰かの視線を感じる。見られている? 拙い……。


 だけど辞めようとは思わない。見られているかもしれないと思ったときになって、僕は誰にも操られていないことを自覚する。自分の意思で景子アナに迫る。見られたって構わないんだ。背徳感はあっても、それに従うつもりはない。


 ほんの少し大人になるだけ。何も恐れるな、僕! でも、これって……。


 あと1秒もあれば、僕ははじめてのキスをしていただろう。それよりも一瞬早く、スタッフさんの大きな声が聞こえる。気持ちが萎えたわけじゃないけど、時間がなくなった。


「集子さん、戻りました!」


 景子アナが遠くなると感じ、目を開ける。同時に額に空手チョップを喰らう。


「いたっ!」

「タイムオーバー。制裁金ものよっ!」


 景子アナはそう言うと、すたすたとステージへと移動する。ひとり取り残された瞬間、罪悪感が襲いかかってくる。寂しくなり、1度は景子アナを小走りに追うが、さっき感じた視線を思い出す。一体、何者?


 急に怖くなってそーっと下手袖に戻り周囲を観察する。どうやら誰かが見ていた形跡はないようだ。気のせい、だったのかもしれない。ほーっと大きなため息を吐いて、また景子アナを追う。


 逃した魚は大きいというけど、全くその通りだ。あと少しでキスをしていただろう。それも相手は超有名な美人女子アナ。もう1歩が踏み込めなかった自分のヘタレっぷりが情けない……。




 ステージに上がると、スタッフと打ち合わせ中の景子アナが見えた。これが経験の差なのだろう。何事もなかったかのように振る舞う景子アナ。対する僕は、キスのおあずけをまだ引き摺っていて、落ち込んでいる。


 だからカメラさんに名前を呼ばれただけで、驚いて声を裏返してしまう。


「イダテンくん?」

「ふぁ、はいっ!」


「なっ、なんだい。そんなにびっくりした?」

「ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたもので……」


 自分のヘタレっぷりが情けない……。


「今のうちに2ショ撮りたいんだけど、いいかな?」


 カメラさんは僕と集子さんの2ショを撮りたかったようだけど、動転していた僕はカメラさんの左に並ぶ。カメラを内に向けたスマホを左手に持って、高く掲げる。カメラさんに身体を寄せてにっこり笑って「はい、ポーズ!」


「って、違うからね。イダテンくんと僕の写真に需要はないからね!」

「で、ですよ、ねぇ……ははははっ……」




 まだ立ち直れていない僕にとって、集子さんとの2ショ撮影は荷が重い。基本的にはカメラさんの言う通りにポーズをとるだけなんだけど、これが中々に難しい。集子さんが女子だということを意識してしまう。


 カメラさんの最初の注文は、2人向き合い腕組みして睨み合うだった。言われた通りにしようとしても、上手くいかない。どうしても集子さんのくちびるに目がいく。


「ちょっとあんた! どこ見てんのよ! 胸元? きもい!」

「違うよ。けどカメラさんが睨み合えって言うから……」


「じゃあ、あんたはカメラさんがキスしてって言ったらキスするわけ?」


 キスという言葉に、ついさっきの出来事が頭を過ぎる。身体が熱くなるを感じ、誤魔化すために大声を出す。


「キッ、キスって! そそそ、そんなことできないよ!」


 それでもまだ身体は熱いままだ。その熱さは集子さんにも伝染する。


「なっ、何よ! あんた死にたいの? 私とキスするのが嫌だっていうの?」

「えっ、えーっ……」


 集子さんに掴みどころがないのもあるけど、今の僕にキスというのがパワーワード過ぎる。このままじゃいけない。早く、立ち直らなければいけない。




 カメラさんが撮影を中断して、僕を手招きする。呆れた顔に居た堪れない。


「イダテンくん。ダメだよ、そんなんじゃ」

「すみません。集子さんの考えていることが読めなくって……」


 本当はキスという言葉に動揺していただけ。それを僕は集子さんのせいにした。カメラさんがそれを咎める。


「違うだろう。男の子なんだから、もっと褒めてあげて!」

「ほ、褒めるって? どうすれば……」


 実に難しい問題だ。集子さんは美少女で、身なりもしっかりしている。僕の学校で1番の美少女より美少女だ。だけど僕には、集子さんを褒める技術がない。たくさんある美少女の要素のどこからどうやって褒めればいいんだろう。


「集子さんは髪型を整えて戻ってきただろう。それを褒めるんだよ!」

「そうですか。全く気付きませんでした!」


「兎に角、髪型だよ、髪型。いいね!」


 カメラさんが半ギレなのが怖い。けど、僕はやるしかない!

__________________________________

失敗から学び、成長するイダテンくん。


ここまでお読みくださいまして、ありがとうございます。

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