おうちに帰っている場合ではなさそうだ!

 高級感のある爽やかで上品な香りの少女。ちょっとハスキーでまだまだ子供といった声の少女。表彰式の流れに精通している少女。


 僕の直ぐ左にいる少女って、一体、誰?


 考えられるのは、映画本編に関わった人。監督さんか助監督さんか。そうでなければ演者。それも主役級。となると1択、紫亜たんのみ。えっ! 僕の直ぐ左にいる少女は憧れの人である生田紫亜なのか?


 どうやら、おうちに帰っている場合ではなさそうだ。




 少女が「一緒に見て頂けるとうれしいです」なんて僕にお願いするんだから、映像を見ることにしよう。そして、機会があれば直ぐ左を見て確かめよう。顔を見れば一発だ。僕が紫亜たんを見間違えるはずはないが、一先ずは大画面。


 映し出されているのは『東京・優駿物語』のPR映像。


 正体不明の少女はときどき髪の香り成分を飛ばしながら僕の耳元で囁く。


「これ、今日のための特別バージョンですよ。ここでしか見れないんですよ」


 少女が言うように、テレビやネットで公開されているものとは少し違っている。醍醐味であるはずのレースシーンは大胆に切り取られ、紫亜たんの映像ばかりが繋がれている。まるで、紫亜たんを紹介するための映像だ。


 観衆も黙って映像に魅入っている。紫亜たんの顔をずっと観ていられるのは僕だけではないのだろう。


 色白で、めっちゃ整った顔つきで、目にも口にも鼻にも耳にも額にも頬にも、どこにも不細工なところがない。まさに完璧。その紫亜たんが僕の直ぐ左にいるのかもしれない。確かめたいが恐れ多くって直ぐには確かめられない。




 左から、また声がする。


「映画の主演ははじめてなんです。一生懸命演じたんですよ」

「……」


 言えない。何にも言えない。あっさりと確定の赤ランプが点っても、気の利いたことの1つも言えない。『東京・優駿物語』に主演している女優さんなんて、この世に2人といない。確定だ。紫亜たんで確定だ。


 今度は、はにかみ紫亜たんボイスだ。


「人前で自分の映像を見るのは、さすがに恥ずかしいですね」


 僕の方が恥ずかしい。確定してからの紫亜たんボイスに全身が反応してしまう。心臓が急に速くなる。赤血球を含めた細胞の1つひとつがよろこんでいる。僕の直ぐ左で天使のような別世界の住人がはにかんでいるんだから。




 よし、見るぞ。僕は、絶対に生の紫亜たんを見るって決めた。映像なんか見ている場合ではない。これはもう、据え膳と呼ばずして何と呼ぶんだ。喰わずして何とするんだ。中学生同士の清き交際は、見つめ合うことからのスタートだ!


 ここへきてようやく決心がつき、そーっと首をまわそうとした。すると……。


「ここ、1番好きなんです。しっかり観てくださいね、決意のシーン」


 はい、見ます! 見ますとも。よそ見をしないでしっかり映像を刮目いたします。僕は今まで以上に大画面を凝視した。


 画面の中の紫亜たんが『絶対にダービー制覇してみせる!』と言う。前後関係は全く分からないが、少女の強い決意がひしひしと伝わってくる。好演であることは間違いない。とても強く、いつまでも心に残るセリフだ。




 ふと思う。映像の中の真剣な紫亜たん。僕の直ぐ左にいる紫亜たんも同様に真剣だ。僕が位置を変えずに突っ立っていることにいち早く気付いてフォローしてくれたのも真剣だから。このイベントと映画の成功を真剣に目指しているんだ。


 それなのに僕は何を考えているんだ。欲望を抑えることもせずに紫亜たんを見ようとした。直ぐ左にいてくれるだけでも運がいいのに。何の実力もないくせに、心のどこかでそれ以上の関係を望んでいる。それはあまりに厚かましい。


 左の紫亜たんに対しても、映像の中の紫亜たんに対しても恥ずかしい。正直言って、今の僕には運の良さ以外に何もない。けどそれは、有言実行して、困難を乗り越えようと努力して、はじめて言えるセリフでもある。


 俺は決めた。金輪際、紫亜たんをチラ見もガン見もしない! その代わりに努力して、立派ないい男になって、紫亜たんを振り向かせる。それまでは、無闇に紫亜たんを見ることはしないと誓う!




 ほんの少しだけど左腕に圧力を感じる。まさか、紫亜たんが僕に寄り掛かってるんではなかろうか。確かめるには見るしかないが、今、見ないと誓ったばかり。しばらくは静観し様子をみることにしよう。


「あぁ、ここからは……普通の……PR……映像と……同……じ……すぅーっ」


 えっ。最後の『すぅーっ』って何? 寝息? 僕はつい左を見てしまう。そこにいたのは、紫亜たん!


 な、情けない。自分で誓ったことなのに10秒も守れなかった。実際に発言してないけど、舌の根も乾かぬうちに左を、紫亜たんを見てしまった。有言実行どころか、不言不実行だ……。


 悪いのは紫亜たんだ。あの状況で『すぅーっ』という寝息は反則。会釈にウインクを飛ばして返すのとか、厚底ブーツを履いてGカップを人の目の高さに晒すのほどではないけど。と、紫亜たんファンらしく紫亜たんを弁護してみる。


「すぅーっ……すぅーっ……」

 ……かっ、かわいい。かわい過ぎる。これは反則だ。前言撤回。寝息は史上最悪の反則技だ。というより、紫亜たんは存在自体が反則技だ!


 これではっきりした。僕の左にいるのは紫亜たんで、立ったまま寝ていて、かわいい。絶妙なバランスを保っていられるのは、紫亜たんが僕にほんの少し寄りかかっているから。それだけでも僕は紫亜たんがかわい過ぎてキュン死しそうです。

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ここまでお読みくださいまして、ありがとうございます。


井田くんには妙な正義感があります。それが災いの元となることもあれば、幸運を呼び込むこともあるようです。


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