バナナ

「きっと、バナナが遊びに来たんじゃないか」


 私の一声に奥に居た五歳になる娘の絵美は、どかどかと足音を立てながら縁台のところにやってきた。バナナとは猫の名前で、約一か月前に交通事故で帰らぬ存在となってしまったのである。

 幼い事もあって当初は死んだことを理解させるのも苦労した。天国はどこにあるのか。実のところこれは大人になった私ですら曖昧な答えしか出せないのだから。


「どこっ?」


 サッシの枠の半分より下の方を手で押さえて、外の様子をキョロキョロと伺う。期待半分、不審半分。娘の瞳はそんな陰りがあった。


「ないてないよ」


 小さい耳に手を当てながら右に左に顔を動かす。自分の娘ながら可愛いしぐさだ。


「ほら?ここ見てごらん」

 

 私は縁台の前に腰を屈めてそれとなく指をさした。


「どこ?」


 そう言って絵美は首を傾げる。

 じっと私の指先を見つめてから何か考えていた絵美は突然、


「あっ!」

 と声を漏らす。縁台の上の不自然な汚れが幼い絵美にもわかったようだ。


「バナナのあし!」


 一声発した瞬間、絵美は一目散で走って行き、キッチンに居る妻の手を掴んで戻ってきた。


「ママみてっ!バナナのあし」


 どれどれという具合に妻は縁台の上の汚れた模様を見てから私に視線を向け、そっと口だけ動かして見せた。

(ノ・・・ラ・・・)

 私はその二文字に、さぁと目を細める。



「てんごくからきたの?」

「きっと絵美がメソメソ泣いてるんじゃないかって見にきたのかもしれないよ」

「ないてないもん」


 ふいと口を尖らせてから「バナナ」と絵美は辺りを伺うように名前を呼んだ。


「こえがきこえないよ。みえないよ」

「天国に行っちゃったからこっちからは見えないのかもしれないね。でもバナナからは見えてるんじゃないかな」


 ふーんと再びその目を縁台の模様に向ける。


 茶トラの猫だった。茶色が薄く黄色に近かったのでその色合いからバナナを連想したのか、名前を付けたのは絵美だった。外へ出さないように気を付けていたものの、空気の入れ替えと僅かに開けた扉から飛び出して行ってしまった。すぐに後を追った。しかし、家に戻って来たのはピクリとも動かなくなったバナナだった。

私は絞った雑巾で縁台の汚れを拭いた。絵美はそれをどこか名残惜しそうに眺めている。



 一ヶ月が過ぎ去り少し傷でも癒えたのかと、


―――「どこかの野良が休んでたのかしら?」


 娘が寝静まった頃、妻がビールを飲む私に声を掛ける。


「この辺じゃあんまり野良は見掛けないしな~。案外バナナだったりするかもよ」

「もう、子供みたいなこと言って」


 妻はそう言って口の端を上げた。

 

 それから和室の障子をそっと開けて縁台を覗き見ることが絵美の日課になった。酷い時は五分おきと仕事から帰った私に妻は楽しそうに零した。


「こないね~?」


 日曜日の昼間、縁台に腰かけてタバコを吹かしていると後ろから声が聞こえた。その声に私は縁台の端に目を移す。家の中は妻が掃除はしてくれる。ただ、縁台などはほとんどそのままで手付かずだ。従って日に日に汚れはするものの、庇のある下ではたかが知れている。


 不安定な天候が続き、雨と風とで縁台は毎日びしょ濡れになった。これでは腰かけて一服することも出来ないと、私は徐々に白く薄汚れて行く縁台をじっと見つめた。その日は朝から日差しが降り注ぐ快晴となった。外に出て何食わぬ顔でタバコを吹かしながら家の中の様子を伺う。それから私はそっと縁台の近くに腰を下ろして耳を澄ませた。


「絵美!来てごらん」


 少しして私は娘の名前を呼ぶ。すぐに娘の足音が響く。妻も一緒だった。


「きたの?」


 と絵美は縁台の上の模様に目を向け、口を大きく開けた。


「また遊びに来たんじゃないかな」


 私は微笑ましく呟いてから妻と目を合わせた。目が合ったのは一瞬で、その後、妻は私の汚れた指先に視線を落とした。



「ご苦労様です」


 その夜、妻は私のコップにビールを注ぎながら一言呟いた。


「え!?」

「実はちょっと模様付けてるとこ見ちゃったの」


 と妻は嬉しそうに笑った。


「見つからないようにやるのも大変じゃない?」


 私は照れくさそうに首を小さく振った。


「もう少ししたらちゃんとした猫探してあげましょ?」


 妻の問いかけに黙ってグラスを見つめる。琥珀色の中にほんの一瞬バナナが見えた気がした。

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