脱走
喉が、やたらに渇く。
「……しゃべれたの」
「しゃべれないと、思っていたんでしょう」
奏山明日美は、上目遣いで、いまにも泣きそうな顔で切子を睨みあげていた。いや、それは怒りなのかもしれない。
「だって、しゃべらないから」
「しゃべったらあなたたちみんな馬鹿にするでしょう」
切子は、ゆっくりと立ち上がった。
ゆっくり、ゆっくりと。厩舎の前に、歩み寄った。
馬が、仔馬がそこにいる。奏山明日美が、馬になってそこにいる。
でっぷりとして、どでんとして、変わり果て身体で、そこにいる。
「なによ、なによ、なによ」
奏山明日美は、顔を真っ赤にしていた。見れば、そこから伸びる馬の胴体も、肩あたりまでは赤く染まってるのだった。
くつわのすっかり馴染みはじめた顔。馬として、肌色の裸体を晒す身体。
醜かった。
「ねえたまたまなんでしょう。こんなの。悪人とか天罰とか言うけど、ほんとは原因不明なんでしょう、こんなのは。それなのにみんなひとごとって顔をして! 私が悪いって顔をして!」
彼女は、必死だった。
「だいたい神田ちゃんだって、ひどいじゃん! 私のことずっと追いかけてたくせに。私にずっとついて回ってたくせに! 友達だったんだよ。いろいろ、してあげたんだよ。それが私がたまたまこうなったからって―――ふつう、こうなる?」
正体不明の衝動が、切子の全身を突き上げた。
思わず、手を伸ばした。そして馬の顎を撫でた。優しく、柔らかく。わざと、あえて――どこか、ねっとりと。
「……私のこと、かわいそうって思ってるわけ。ねえ、だったら、逃がしてよ」
意地悪く、それでいて媚びるように、彼女は言った。
「私、このままだったら、牧場行きなんでしょう。いや、いやよ、それだけは、ぜったいにいや。逃げて逃げて逃げ延びてやる。どうして私が、……こんなんになっちゃったのか、いつかはほんとうの理由だってわかるはずだもん。私はそれまでどこか辺境の森とかで生き延びるんだから」
「……でも、もしほんとうに」
切子は、痛みにも似た感傷に思わず眉をしかめた。
「ほんとうに、天罰のせいだったら、どうするの」
ランダムなのかもしれない。天罰のせいなのかもしれない。
わからない。科学が正しいのか、宗教が正しいのか。でもいまの切子にとってはそれは、もはやどうでもいいことと、なりつつあった。
いや、むしろ。
宗教のほうがやっぱり正しいのかもしれないとさえ思った――だって、馬が馬になったのは馬が悪人だから天罰なんだからって、切子も当たり前のようにいま、……信じたい、と思ったから。ごく自然に――。
「……違う。私のせいじゃない。違う、違う、違う。ねえ助けて、助けてよ。だれがなったって、おかしくないのよ……動物化なんて。たまたまなのよ」
切子は。
馬の顎を、そっと持ち上げた。馬が屈辱感をあらわにして呻くのも、かまわずに。
「あなたのこと、助けたいと思える私ならよかった。
でも、できない。……私も、あなたにいじめられてたんだと思うから」
馬は、両目を見開いた。その瞳孔の中心に、唇を引き結んだ切子が小さく映った。
馬は唐突に大声をあげた。切子は反射的に飛び退いた。と思うと、後ろの右足を大きく振りかぶった。躊躇なく木の板を蹴りあげて、硬いひづめに、古くてもろい厩舎の設備はあっけなく敗北した。板はパカッと割れ、木くずとともに、ハラリと落ちた。これで馬の、外への進行を妨げるものは、なくなった。
馬はそのまま狂ったように大声をあげて、まっすぐに走り出した。校庭のほうへ。あの速度でまっすぐ走られてしまえば、すぐに校門にたどりついてしまうだろう。脱走されてしまう。
「だれか!」
考える前に、切子は足を動かしていた。
「だれか、あの馬を、捕まえて、だれか!」
いままでの十年の人生で、こんなに大きな声を出したことはない。
下校途中だったのは、小学生だけではなかった。中等部や高等部の生徒たちも、混ざっていた。だからすぐに事態が動いた。かばんを投げ捨てて、馬を追いかけていくひと。シスターを呼んでくるひと。緊急通報をするひと。
社会的に、もう馬は逃げられないのだった。
切子は、馬を追いかけた。とにかく、追いかけた。けれども校庭の真ん中で限界がしてしまって、膝をつく。ぐるぐるする、吐き気がする、だってこんなに本気で走ったから。でもまだ駄目だ、走らないと、あの馬を、あの馬を止めないと――そう思って立ち上がろうとしたとき、切子はだれかのあたたかい身体に支えられた。
「切子ちゃん! だいじょうぶ?」
「千代ちゃん……」
「ごめん、ごめんね、こんなことになるだなんて。もう、だいじょうぶだよ。シスター・ルチアがいま来てくれる――」
雄叫びが、聞こえた。シスター・ルチアの、普段のようすからは考えられない激しい雄叫びなのだった。手には、鉄球つきの鎖を持っている。鉄球には棘がついていて、てらてらと黒く光っている。
シスター・ルチアは、だれよりも速く校庭を駈けていった。生徒たちは海が割れるときのように厳粛に道を開けていく。シスター・ルチアの、いつも被っている修道女のヴェールが途中で風にさらわれて、はらりと風に舞った。小等部の低学年の子が、そんなヴェールをひらりと両手で受け取っていた。
シスター・ルチアは、速い。馬の走りにさえ――追いついてしまう。
距離が、近づいたとき。
シスター・ルチアは振りかぶった。
「この、罪深い獣が!」
そして、鉄球をその尻に、容赦なく打ちつけた――生徒たちの悲鳴があがる。きゃあっと千代ちゃんも叫ぶ。千代ちゃんをかばって、切子はその頭を抱き寄せた。その尻はあっというまに血まみれになっている。その赤さを、切子は直視していた。
シスター・ルチアが鉄球をなんどか入れると、馬の歩みは止まった。よろよろとしたものになり、やがて、長い脚を折ってひれ伏すかのような体勢になった。
しかしそこでは終わらなかった。ほかのシスターたちが修道服のまま校舎からわあっとやってきて、馬を、叩いたり蹴ったりし続ける。しなるムチで打ちつけたり、足で蹴ったり。つばを吐きかけ、罵声を浴びせる。
「この、獣、獣、獣がっ」
シスター・ルチアもそう言って、だれよりも馬を痛めつけているように見えた。
児童や生徒たちは、おそるおそる近づいたり、あるいは足早に下校を再開したりしていた。呆然として泣き出してしまう子もいた。
そんななかで切子は、怖がる神田さんをかばいながら、遠目にそのようすを直視していた。目を逸らさないで。
さっきの馬の言葉が頭のなかでリピートする。
たまたまなのよ――。
切子の髪が、ふと吹いた風に揺れた。六月に入ってから、神田さんのすすめもあってふたたび伸ばしはじめた髪は、もうすでに耳もとよりは長くなっているのだった。
……この髪だって。
あんなふうに言われなければ、いまは立派なロングヘアのはずだった。
だから。
たまたま、なんかじゃない。
奏山明日美は、馬になるべくして、なったんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます