厩舎の前で

 校舎の裏庭にある厩舎は、独特の異臭がする。一頭につきひとつの区画が割り当てられている構造だが、いまは五年一組の仔馬だけが、ここに収められているのだった。


「馬、かわいそー。こんな暑いのに冷房もないんだもんね」


 神田さんは、バニラ味のアイスをおいしそうに舐めている。切子はチョコ味。学校の敷地の裏にある自販機でアイスを買って、ふたりで寄り道していたのだった。

 六月も中旬に差しかかった。梅雨明けするにはまだすこし時間がかかるけれど、今日は雨は降っていなくて、気怠い、気怠い、暑い放課後。

 神田さんとは、急速に仲よくなりつつある。今日も馬を厩舎まで連れてきて、その目の前、花壇のブロックに並んで座ってふたりでこうして寄り道をしているのだった。


 アイスを舐めていたからワンテンポ遅れて、切子は神田さんの言葉にうなずいた。


「うん、そうだね。水も、ぐびぐび飲ませると怒られる……」

「馬ごときにもったいないもんね。水道代」

「シスターたち、学校の予算に厳しい」

「それねー。でもマジでかわいそう。アイスも食べられないなんてね。しかも一生でしょ?」


 切子も、アイスを舐めた。甘くて、冷たくて、おいしい。


「おいしいね、アイス」

「おいしいねえ」


 切子がしみじみ言うと、神田さんはまったりと返してきた。友達らしいやりとり――思えばこんなに仲よくなった子なんて、はじめてかもしれないな、と思った。

 私たちは仲よくしている、切子は呪文をとなえるようにそう思う。


 ……そして。

 さっきから、わかっている。

 視線を感じる。

 感じている。

 厩舎からこの場所は、余裕で見えるだろう。馬は、ふたりを、凝視している。


 神田さんのほうが、ひと足先にアイスを食べ終わった。アイスの棒を眺めて、はー、はずれだー、とため息をついて、のけぞるように後ろにすこし倒れ込む。残念、と言って切子も笑った。


「でもさ、どうして動物になっちゃうんだろうね?」


 神田さんはそのままの体勢で、夕暮れの始まってきた、でもまだ青い空を見上げながら言い出した。切子は思わずアイスを食べる手を止めて、神田さんの話の続きを聞く。


「動物になっちゃうのってマジでかわいそうだけど、悪いやつがそうなるって言うよね。最新の研究でも、天罰だって言われてるんでしょ? ニュースでみんなそう言ってるもの」

「……シスターたちも、そう言ってるよね」


 切子は、ほんとうは科学的立場をとる。時代遅れとわかっていても、切子はなんとなく科学が好きだった。でもそのことを知られてしまうのは、神田さん相手でも、いや神田さん相手だからこそ怖かった。


「そうだよね、常識。じゃあやっぱりさ」


 ちらり、と神田さんは馬のほうを見やった。軽蔑とも、愉悦とも、どちらであるとも取れる視線。口もとも、その感情に合わせて歪む。


「あいつってさ、悪人だったってことだよね」


 あいつ――神田さんがそんなざっくりした言葉を使ったこともびっくりしたし、神田さんが奏山明日美に対して言及することにもびっくりした。


「ね、そうだよね。……切子ちゃんもそう思うでしょう?」


 切子は弾かれたように顔をあげた――神田さんに下の名前で呼ばれたのは、はじめてだった。


「う、うん。そうだよね、あの、……千代ちゃん」


 とっさに、そう呼んでしまったのだけれど。

 どうやら正解だったようで。

 よろしい、とでも言いたげに、神田さん――千代ちゃんはにっこりと笑った。


「アイス、溶けかかってるよ、切子ちゃん」


 はっとして、慌てて残りを口に押し込む。甘さが、冷たさが、じーんとくる。火照った身体にも、……火照った心にも、しみわたる気がする。


「私も、はずれだった」

「残念。じゃ、私、捨ててきてあげようか?」

「え、でも」

「いいよ、ほら切子ちゃんはバケツとか用務員さんに返さなきゃでしょ。そのあいだ私がゴミ捨ててきちゃうから、いまからどっか遊びいこ! 暑いし」


 それは、ふたりで出かけるってことだろうか。

 いままで何人かで遊ぶことはあっても、千代ちゃんにこうしてふたりきりのときに誘われるのは、初めてで。

 ……たぶん嬉しすぎて、反応が追いついていなくて。


 切子の表情を見て、千代ちゃんはちょっと心配そうな顔つきになった。


「……ごめん。ちょっと、強引だったかな? 予定とかがあるならいいよ。また、今度にしよ。でも実はね、あのね、私、切子ちゃんと行ってみたいお店屋さんがあって――」

「ううん、いい、ぜんぜん、そうじゃない。今日予定ない、マジでなんもない」


 ガタリ、と勢い込んで立ち上がった切子に、最初は戸惑っていた千代ちゃんだったけれど、すぐにおかしそうに笑った。


「じゃあ五分後に校門前で集合ね!」


 そうして、ひらりと。身軽な蝶々のように身体をひるがえすと、千代ちゃんは走りはじめた。すぐにその背中が小さくなる、と思ったらこちらを振り返る。

 千代ちゃんは大きく手を振ったあと、手を口もとでメガホンのように当てた。



「馬になっちゃったら、おわりだよね」



 切子は、なかば反射的に右手をまっすぐあげた。



「ねえ切子ちゃーん、お互い、動物化なんかしないようにー、気をつけてー、過ごしましょー。それでずーっと、友達でいよー!」



 千代ちゃんはもういちど大きく手を振って、こんどこそ駈けていった。

 心臓が、気持ちがばくばくしている。悪い意味ではなくて。なんていうか。なんだろう。これは。かつて封じ込めることにしたはずの、期待――。



 胸がいっぱいだった。



「……ひどいじゃん」



 だから、か細い声が、最初だれのものだかわからなかった。



「私だって、好きでこんな……なったわけじゃ、ないのに」



 切子は、振り向く。

 奏山明日美が、しゃべっていた。人間の言葉で。

 馬になってから、はじめて。

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